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●救世主 きゅうせいしゅ

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 メシア Messiah(ヘブライ語)。救世主とは,世を救った者または救っている者のことをいう。したがって大抵の国や民族に,それを救った英雄がいて,救世主とみなされている。国難や民族の危機を救えば英雄である。これはいわゆる地上的メシアである。しかし,今から述べる救世主は単に地上的なものではない。地上的なものをはるかに越え,しかも汎国家的,汎民族的,汎文明的なメシアである。

 西歴約30年,1人の男が人類の歴史上最もみじめで,あわれな死にかたをした。いわば英雄的な華々しい死にかたをしたのではなかった。人々のあざけりと誤解のなかで,その男は孤独のまま十字架にはりつけにされた。当時,十字架刑は最も不名誉な刑だった。彼の弟子たちさえ,その男のことを本当に理解していなかった。その男の名をイエス(Jesus・ラテン語)という。のちにキリストと呼ばれた男である。キリストとはポルトガル語であり,ヘブライ語ではメシアと呼び,日本語では救世主の意味である。ではなぜ,そのようなみじめな死にかたをした人間がメシアであったのか。重要なポイントである。

【イエスがメシアであった理由】〈幸いなるかな貧しき者よ,神の国は汝らのものなり。幸いなるかな泣く者よ,彼らは慰められるべければなり〉(『ルカ福音書』6章20節)〈重荷を負うている全ての人よ,来なさい,私のもとに,休ませてあげる,そのあなたを〉(『マタイ福音書』11章28節)

 生前イエスはこのように語った。彼は愛の神の存在証明をしようと全生命をかけた。イエスは重荷を背負っている人を救おうとした。休ませてやりたいと思った。その人たちに愛の神の存在証明をしてやりたかった。そのためにはどうすればよいか考えた。彼は重荷を背負っている者と,その重荷を分かちあいたいと思った。病に苦しむ者とともに苦しんでやりたかった。それにはどうすればよいか。〈イエスは,人間にとって一番辛いものは貧しさや病気ではなく,それら貧しさや病気が生む孤独と絶望なのだと知っておられた。(中略)イエスは,これら不幸な人々に見つけた最大の不幸は彼等を愛する者がいないことだった。彼らの不幸の中核には,愛してはもらえぬ惨めな孤独感と絶望が何時もどす黒く巣くっていた。必要なのは愛であって,(中略)人間は永遠の同伴者を必要としていることをイエスは知っておられた〉(遠藤周作著『イエス=キリスト』)。〈人間たちの痛さを引きうけるために,この私はいるのだ。私も痛い〉(遠藤周作著『黄金の国』)。私も痛かった,手と足に釘を打たれたとき。私も重かった,十字架を背負わされたとき。イエスはこういいたかったのである。こうしてイエスは確実に人間の同伴者となり,人々の心の救いを神に祈った。人間の子として最もつらいことをすることによって同伴者であり,救い主であったのである。

【救世主として】地上的なメシアは必ず滅びる。なぜなら時代が変われば次の地上的メシアが出現するからである。人間はつねに永遠不変な愛を求めている。愛がなければ人間は生きていけぬからである。愛のメシアは滅びることはない。人間がつねに求めているからである。愛の神は目にはみえぬ。だから存在しないという人もいる。しかし,神と人間のかかわり合いは,法廷の事実認定とは違う。まったく次元を異にしているのである。人間同士の視覚や具現的な次元をはるかに越えたところに神は存在しているからである。キリスト教において愛の神は主であり,人間は従である。だが人間は時々それを忘れる。自分が主であり,他のいかなるものも従であると考えてしまうときがあるからである。“祈り”とはそのような心をもとにもどしてくれる宗教的体現である。神は実存し,人間のすべての喜びや苦しみ,悲しみやつらさを分かち合ってきている。いわば人間の同伴者なのである。

 “神ともにいまして,行く道を守り……”とキリスト教会がこのように聖歌を歌うとき,それは正しい。しかし,人間は時々自分自身や神の存在を忘れるのである。そして罪を犯し,神を裏切ったりもする。人間が神を裏切っても,神は人間を裏切らない。逆に許そうとしてくれる。それが愛の神メシアなのである。愛の神の存在証明を身をもってしてくれたのはイエスであるという。

 言語を用いて愛の神メシアの教えを説くのはとてもむずかしい。しかし,キリストは言語をもって人間に語った。

 〈はじめに言葉ありき,言葉は神と伴にあり〉『ヨハネ福音書』1章1節の冒頭のことばである。これは神が人間にことばで愛を伝えようとしたことの証しである。このように語るキリスト教の教典・聖書は,現在1,631の言語に翻訳されている。また,愛のメシアに祈る人間は10億人いるという。