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●九州 きゅうしゅう

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 九州は大陸や東南アジアにもっとも近い地域として早くから対外交渉史の焦点であった。とくに北九州地域は前3世紀ごろから水稲技術の受け入れをはじめ,種々の青銅器など弥生文化をいち早く形成し,日本列島における先進的な文化圏を形成して大きな刺激を与えた。紀元前後にみられる小国家の形成や邪馬台国の存在も,北九州をぬきにしては考えられない。その後大和政権の成立とともに九州は戦略的・文化的な最前線基地に位置づけられ,朝鮮半島との深い関わりをもつようになった。高句麗広開土王の碑文によれば,391年「倭」が朝鮮半島に侵入した記事があるが,最近では「倭」は九州北部をさすという見方もあり,527年の筑紫国造の磐井の反乱も大和王権の圧力に抗して,新羅と結んで反乱をおこしている。百済との深いつながりも,663年,白村江の敗戦で大きく転換し,九州は唐・新羅の進攻への防備のため,大宰府が西海道の総管府として設置された。また水城や山城を築き,壱岐・対馬・筑紫には防人を配した。7世紀初頭には遣隋使さらにひきつづいて遣唐使が派遣されたが,すべて那津(なのつ,現在の博多)から船出した。奈良時代に成立した『古事記』には九州全体が筑紫島(つくしのしま)と呼ばれ,筑紫・豊(とよ)・火(ひ)・襲(そ)の四国からなっていた。「つくし」は国土のつきはてるところという大和政権からみての用語と思われる。律令制のもとでは,筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向の七国に壱岐・対馬を加え,五畿七道の一つ,西海道と呼ばれた。のち日向から薩摩・大隅が分立し,九カ国が九州と呼ばれるようになった。1019年(寛仁3),刀伊(とい,女真族)が突如50隻余りの船で対馬・壱岐・北九州を襲撃したが,大宰権帥藤原隆家ら官人の活躍で撃退した。しかし,これは太平に慣れた朝廷律令貴族を驚かした。13世紀ごろから,高句麗との間に公貿易が絶え,武力を伴う密貿易が行われるようになった。

 文永・弘安の2度にわたった蒙古軍の来襲は本土侵略の危険性があったが,大暴風雨に助けられ敗退させることができた。

 鎌倉時代から活躍する松浦(まつら)党は,北松浦半島を中心に同族的な一揆結合をもって結束し,武力的な貿易活動を展開したが,東日本にはみられぬ結合形態であった。九州地方の土豪は多く幕府の御家人に組み入れられたが,また幕府から守護として任命された武藤氏・大友氏・島津氏らはいずれも関東御家人で,これ以来,九州に勢力を振うこととなった。

 室町幕府によって九州経営の中心機関として設けられた九州探題も,今川了後の退陣後は,諸豪族間の争乱が続き,大友・島津・大内氏らが守護大名として台頭するきっかけとなった。

 蒙古襲来以降14世紀ごろから南北朝の動乱の時期に北九州や対馬・壱岐の土豪や沿岸住民が武装して貿易活動に携わり,朝鮮や中国側から「倭寇」と呼ばれた。室町幕府が成立し,勘合貿易が始まると,倭寇の活動はおさえられ,博多を中心に日明貿易が栄え,博多商人が堺と並んで活躍した。

 戦国期の九州は,守護大名以来の伝統をもつ大友・島津そして土豪から成長した竜造寺の諸氏が勢力を競い,豊臣秀吉の九州征伐によって,近世的体制に位置づけられた。秀吉は九州を朝鮮侵略の軍事的拠点として,肥前名護屋城(佐賀県鎮西町)を前進基地として築き,2度にわたる出兵が行われ,完全なる失敗に終った。従軍した九州大名がつれもどった陶工が九州各地の陶業に大きな影響を与えた。

 九州の近世を彩るものは,16世紀後半ヨーロッパ人の渡来による鉄砲をはじめとする軍事技術やキリスト教を中心とするヨーロッパ文化の流入であった。九州の大名たちは積極的な対応を示し,財源獲得の手近な手段として貿易を熱望し,キリスト教も奨励した。しかし鎖国体制の成立は一転して長崎のみがオランダ・中国への貿易港となり,諸大名は外様大名として牽制され,小倉と日田に譜代大名と代官を配した。幕末の薩摩・佐賀両藩は雄藩として独自な藩政改革に成功し洋式工業を興して日本の近代産業の先駆となり明治の殖産興業の母胎となった。かくて両藩は明治新政府の主導権に連った。