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●九・三○事件 きゅうさんぜろじけん

AD1965 

 1965年9月30日深夜から10月1日にかけてインドネシアの左派系軍将校たちによってひきおこされ,失敗に終わったクーデターの企てをいう。同事件に続く政治的社会的動乱は,スカルノ政権の崩壊とスハルト政権への交替をもたらした。その背景と経過は以下のとおりである。

スカルノ政権下のインドネシア】1945年の独立宣言から4年余の独立戦争をへて1950年に西イリアンを除く旧オランダ領東インドの全域に主権を確立したインドネシア共和国は,当初,政党制議会民主主義の政治体制を採用したが,オランダの権益の残存,国内のさまざまな利害対立など複雑な問題を抱え,慢性的な政情不安に苦しんだ。窮状打開のためスカルノ大統領は,1956〜58年の外島反乱鎮圧,オランダ企業接収などを転機として大統領権限と行政執行権力を強化し,「ナサコム」すなわち民族主義・宗教・共産主義の3大勢力の連携を基調とする挙国一致の政治体制をつくりあげた。この体制下でインドネシアは「新旧植民地主義反対」の方針のもとに,西イリアン解放,マレーシア粉砕などの急進的対外政策を展開したが,その過程で勢力を増したインドネシア共産党PKI)と,これに反対する勢力,とくに陸軍首脳部やイスラーム団体とのあいだの対立が抜きさしならぬ状態となり,また経済は極度の混乱に陥った。

【9月30日運動】1965年9月30日深夜,ジャカルタのハリム空軍基地に隣接したルバン=ブアヤ地区に,大統領親衛連隊の一部と中部・東部ジャワ両師団の精鋭2個大隊が集結し,その一部はナスティオン国防相,ヤニ陸相ら7名の軍首脳の拉致にむかい,他の一部は首都の中心部にある国営放送局・中央電報電話局・大統領官邸を占拠した。ナスティオンはからくも逃げのびたが,ヤニは抵抗,射殺され,その遺体はのちに他の5名の将軍の遺体とともに,ルバン=ブアヤの古井戸で発見された。10月1日朝,「将軍評議会」の反革命を阻止し「インドネシア革命評議会」を設立するという声明が,「9月30日運動司令部」(司令官は中部ジャワ師団出身の大統領親衛連隊将校ウントゥン中佐)の名で国営放送を通じて流された。襲撃を免れた陸軍首脳のうちで最長老格であった陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将(元中部ジャワ師団長)は,特別降下連隊と西部ジャワ師団の精鋭部隊を投入して同日夜までに放送局・電報電話局の反乱部隊を帰順させ,翌2日のうちには若干の戦闘ののちハリム空軍基地内の残りの反乱部隊の鎮圧にも成功した。中部ジャワでも「9月30日運動」に呼応する軍内の反乱が勃発したが,やがて平定された。

【共産党の壊滅とスカルノの失脚】事件当夜,ルバン=ブアヤ地区には共産党系の青年・婦人組織のメンバーがマレーシア粉砕キャンペーンのために動員されていた。また,10月1日朝ハリム空軍基地には,左派系のダニ空相とともにスカルノ大統領とアイディット共産党議長が滞在していた,といわれている。10月2日付の共産党機関紙「ハリアン=ラヤット」の社説は,〈この問題は陸軍内部の問題である〉と留保しながらも,「9月30日運動」を「愛国的かつ革命的」と評価した。反乱鎮圧後6人の将軍の惨殺死体が発見されると,インドネシア国内の反共気運はいっきょに高まった。ジャカルタでは共産党本部の焼き打ちが行われ,反中国・反華僑の襲撃事件が頻発した。ジャワ・バリ・北スマトラなどでは共産党に反対する勢力によるテロルが吹き荒れ,陸軍による共産党員・同調者の逮捕・投獄・殺害も未曽有の規模で進められた。この動乱による死者数は数十万人におよぶと推計され,アイディットら最高幹部の大半を失った共産党は事実上壊滅した。1966年に入ると「物価引下げ・共産党解散・内閣改造」の3大要求を掲げる学生運動が陸軍の支持のもとに激化し,スカルノ退陣を迫る圧力が強められた。同年3月11日スカルノは大統領権限を,前年10月に陸相に就任したスハルトに委譲し,実質的退陣を余儀なくされた。