●救荒食物 きゅうこうしょくもつ
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救荒とは飢饉のさいに救助することであり,救凶ともいう。救荒食物とは飢饉のときに命をつなぐ食物のことである。【救荒食物の実際】1835年(天保7)の飢饉にさいして遠州地方の農民が何を食べて命をつないだかを記した記録がある。それは,1884年(明治18),引佐郡伊平村ほか4ヵ村戸長代表安間守次が引佐麁玉郡長松島平吉に報告した書類である。これによると,救荒食物は次のとおりである。[1]松の皮〈外皮を去り木に密着したる白色の部分を取り木灰を交へて烹煮し水に浸すこと2昼夜ばかり。脂分を全く去るを待って米麦或は粟稗黍等の粉少しばかりを混じ蒸して餅となして食す。その味やや甘くして害なし〉[2]曼珠沙華の根〈その形水仙の根に類す。土を洗除し木灰を交へて烹煮し,熟するを待って磑磨し桶等に入れ水に浸すこと2昼夜ばかりにして苦味を去り,然る後水を除き米麦或は粟稗黍等の粉少しばかりを混じ蒸して餅となして食す。その味わいやや苦くして淡白なり。毒分あり之を食する(さらさずに)者は身体膨脹して煩悶す。然れども死する者少し〉 [3]牛蒡の葉 [4]蓬 [5]多羅の木の根皮 [6]樫実 [7]栃実
[8]アカザ [9]藤の葉 [10]タンポポ [11]ヨメナ [12]アザミ [13]椋樹の葉 [14]榎の葉 [15]アケビの若蔓 [16]オオバコ [17]蕗 [18]ギョウブ [19]クサギ [20]蕨 [21]麦糠 [22]粟糠 [23]稗糠 [24]黍糠 [25]籾糠〈以上諸糠は釜にて煎り磑磨して粉となし之を器に盛り熱湯を入れ混交して啜る。之を食する者は悉く腸胃を害す。然れども死に至る者なし〉[26]稲藁〈藁のなかばより根までを煎りて磑磨するより食するまで糠に同じ胃病に罹る等も亦同じ〉
【救荒的食物の食習】前記の,1884年の報告書のなかに樫・栃があげられているが,栃は現在でも白山麓・飛騨・奥秩父・東北地方の山村では食用に供されている。樫果類は縄文時代以来の食物である。山地焼畑文化圏で縄文時代から現代まで生き続けている古層の食物が,平地稲作地帯では救荒食物として食されることがあったのである。古層の採集食物であるトコロも,時代をへるにつれて救荒食物的色彩を強めた食物であった。
1.トコロ:トコロはヤマノイモ科で,ヤマイモによく似ているが苦味が強くてアクヌキをしなければ食べられない。毛根が多いところが鬚に似ているので「野老」の字をあてる。トコロは『延喜式』『和名抄』にもみえ,和泉流狂言の演日のなかにも「野老」がある。日本人はかつてかなり広くトコロを食べていたのである。トコロのアクヌキは,たとえば,岐阜県本巣郡根尾村越波では次のようにした。[1]トコロの鬚を庖丁でよく除き,薄く切って乾す。[2]灰汁を入れて煮る。[3]サナの上に布ツト(麻布)を敷き,その上にトコロを並べて一日中水でさらす。[4]トコロをザルに集める。[5]ヌノツトの上に丸い枠を置き,その上にトコロを入れたザルを置く。[6]栃の皮・柿の渋などを漬けておいた水をトコロの上にかける。[7]ザルでトコロを濾す。[8]ヌノツトにトコロの粉が落ちる。[9]この粉で団子などをつくる。また,静岡県磐田郡水窪町西浦では次のようにした。[1]トコロを洗って叩いて細かくする。[2]袋へ入れて谷川へ入れてl週間ほどさらす[3]固くなるまで5日間ほど干す。[4]石臼でひいて粉にする。[5]黍の粉とまぜ塩味をつけて団子にする。
2.シコクビエ:シコクビエはアフリカサバンナ地帯原産のイネ科の植物で,『和漢三才図会』には龍爪稗・鴨爪稗などと記され,一般にカモアシ・朝鮮稗・弘法黍などとも呼ばれる。掌を開いた型に穂が出,粒は粟・稗大で赤い。製粉してソバガキ状にして食べたり団子にして食べたりする。[1]痩せ地でも収量が多い。[2]気候条件による収量の変化がない。[3]精白減少率が少ない。[4]貯蔵がきく。といった長所をもつため救荒食物として優れていた。四国・中国・近畿・東海・北陸などの山地焼畑地帯で広く栽培された。静岡県棒原郡には,茶摘唄として〈千頭小長井岸田代は命つなぎの弘法黍〉といった歌詞が伝えられている。
〔参考文献〕野本寛一『焼畑民俗文化論』1984,雄山閣
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