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●キャフタ条約 キャフタじょうやく

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 1727年(雍正5),清国とロシアのあいだに締結された条約。キャフタで批准交換された。逃亡者・国境問題の解決,貿易と外交交渉についての取り決め,北京のオロス館の規定を主内容とする。

外モンゴル国境】外モンゴルのハルハ諸部は,1622年の内紛に乗じて台頭したジュンガル部のガルダンの圧迫を受けたため,内モンゴルにのがれ清朝の保護をあおいだ。こうして1691年(康煕30),内モンゴル諸部と亡命中のハルハ諸部はドロンノールに清朝と会盟し,ハルハの首領たちも爵位を受けて正式に清朝に臣従することとなった。こうして外モンゴルは名目上清国の版図に入ったが,現実にはジュンガル部が盤拠し清朝の支配は及ばず,ロシアとの国境画定はまったく非現実的であった。一方ロシア側も清朝に反抗するジュンガル部に接近し,これと同盟する動きをみせた。このようなロシアの態度に不満をもった清朝は,1698年(康煕37),ロシア隊商の北京来訪を拒否し,ジュンガル部の孤立をねらって,ロシアが外モンゴル国境を画定し清朝と友好関係を樹立しないかぎり,北京貿易もロシアの望む通商条約の締結もありえないという意向を表明した。1722年(康煕61)にジュンガル部が雍正帝の呼びかけに応じて講和するにいたり,清国の立場は強まった。ジュンガル部との同盟ののぞみを断たれたロシアは,清国の要求する国境・逃亡者問題も解決して,対清貿易の再建をはかることが急務となった。

【条約交渉】こうして1725年,ロシアは特命全権ウラディスラヴィチを代表とする使節団の派遣を決定した。翌年10月北京に到着した使節団は6カ月にわたる交渉により条約内容についての基本的合意に達した上で国境にいたり,清国側代表とともに国境線画定作業を行った。1727年10月21日,ウラディスラヴィチと清国の吏部尚書チャビナ,理藩院尚書テクテらが条約に調印し,翌年批准された。この条約(清側=満洲・ロシア・ラテン文,ロシア側=ロシア・ラテン文)が交換された。

【条約の内容】条約は全11条からなる。おもな点は以下のとおり。[1]両国は所属の人民を厳重に管束し,逃亡者は容留せず相互にひきわたす。ただ過去の逃亡者は現状のままとする(1・2条)[2]東はネルチンスク条約で定めた国境にアバガイドウで接続し,西はアルタイ山脈東端にいたるまでの国境線画定(3条)[3]ロシアは4年に1度,隊商を北京に送り貿易をすることができる。またキャフタとネルチンスク付近での国境貿易も認める。貿易は非課税(4条)[4]北京のオロス館に捕虜のロシア人を居住させ,教会をつくり4人の聖職者と6人の学生の在住をみとめる(5条)[5]両国間の文書や使節往来について,文書で照会があれば双方ともすみやかに回答すること(6・9条)。この条約は両国の対等関係を綿密に規定したところに特徴がある。ネルチンスク条約から出発した両国の外交関係は,この条約にいたって鞏固な形式と内容をそなえ,以後アイグン条約によってこれが不平等関係に移行するまで100年以上にわたって効力をもった。

【条約後の貿易外交関係】ロシア隊商の北京貿易はおもに毛皮輸出を国家が独占して巨利をあげるのが目的であったが,国境での密輸に圧倒され,利益をあげることが困難となった。このため1754年(乾隆19)を最後として北京貿易は停止され,国境でロシアが自国商品に関税をかけて自由輸出をみとめる体制が確立し,恰克図(キャフタ)は貿易の町として大いに発展した。清朝は1731・1732年(雍正9・10)の2度にわたり使節をペテルブルグに送るなど友好関係維持につとめたが,1755年(乾隆20)にジュンガル部を最終的に討滅してからは,しだいに優越した態度でロシアに臨むようになった。貿易停止という外交圧力の手段をもったからである。ロシアとの外交関係から学んだこのような清朝の外交の方法は,アヘン戦争まで他の西洋諸国にも適用され,その外交的優位を保障した。

〔参考文献〕吉田金一『近代露清関係史』世界史研究双書,1974,近藤出版社

中国社会科学院近代史研究所『沙俄侵華史』1978,人民出版社