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●義民伝承 ぎみんでんしょう

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 義民とは,多数の農民のために,一身をなげうって働いた百姓一揆の指導者および犠牲者のことをいい,義民伝承とは,地元の農民のあいだで,ひそかにまたは公然と,親から子へと語り伝えられた,義民についての物語や逸話のことである。

【義民伝承の特質】義民の定義を一般的な語義からすれば,世のため人のために一身を犠牲にしてつくした庶民ということになるが,歴史用語では江戸時代から明治初年にかけての,百姓一揆をはじめとする民衆闘争の指導者・犠牲者をさすわけである。幕藩体制のもとでは,百姓一揆にしても,村方騒動・都市騒擾にしても,法度で厳しく禁止されていたので,事の成否にかかわらずその指導者は何らかの形で刑罰を受けた。しかも事件の内容はなるべく歴史上から抹殺してしまおうという為政者側の意図によって,残存文書史料では事件の内容そのものも,指導者や犠牲者の業績も,不明であるかまたは多かれ少なかれ歪曲されているのが通例である。ところが事件の当事者となった村人たちは,子から孫へと口伝の形でそれを語り残したのであり,それがほかならぬ義民伝承なのである。したがってそのなかには,文書史料にはない真実が含まれていることもあるのであって,そこが事物起源伝説や怪異伝説などと異なるところである。しかし反面,為政者の厳しい取り締りの目を逃れて秘密のうちに伝えたために,内容が変容された場合もあるし,また長い年月のあいだに農民の願望が,一人の義民の業績に名をかりて,つぎつぎに架上累加され,現実ばなれしたものになった場合もある。伝承の方法としては,命日に供養の行事をするとか,稲荷・地蔵信仰と結びつけて併祀し,その祭祀行事とからめて義民の業績を伝えるなどのほかに,わらべ唄・手まり唄・くどきなどに詠み込んで伝えた場合もある。義民伝承にはかなり共通したモチーフをみいだすことができる。[1]義民は一般百姓とは異なる非凡性をもっていた。[2]多数の人びとの困窮を見かねて一揆の指導者となる。[3]願いは聞き届けられ人々は恩恵を受けるが,掟法によって処刑される。[4]処刑にさいし,赦免の達しが出るが,使者が到着する前に刑が執行される。[5]そこで手厚く葬り奉祀もする。[6]または無慈悲な処刑が行われ,怨霊の崇りがでたのでこれを鎮魂する。以上のような内容が共通的にみられる。

【義民伝承の具体例】数多くある義民伝承のなかで最も有名なものは佐倉惣五郎伝承である。惣五郎の実在と実際の事績について判明しているのは,佐倉領公津村に惣五郎という26石余の土地をもつ有力農民がいたが,なんらかの咎で,承応年間(1652〜55)に子供4人とともに処刑された,ということだけである。ところが現在歌舞伎で上演される「佐倉義民伝」の脚本に描かれている佐倉惣五郎像が,伝承をしだいに肉づけしてつくり上げた結果だとみることができるのであるが,そこでは,一身をなげうって佐倉全領の農民代表として将軍に直訴した偉丈夫となっている。そのように伝承が架上累加された背景には,江戸時代に『地蔵堂通夜物語』という物語が書かれていたからである。しかもそこに書かれた物語の筋書きが,当時の佐倉藩主によって事実とみなされ,藩主によって惣五郎が神に祀られるということさえあったのである。このように,義民が現在において有名になっている背景には,本人の事績よりも,後世の人々の顕彰運動の有無が大きく関わっているといえる。現在有名な義民を全国的にあげてみれば,前記佐倉惣五郎を筆頭にして,群馬県利根郡月夜野町の杉木茂左衛門(真田信直の苛政を将軍に訴願し,1682年(天和2)に磔刑となり,磔(はりつけ)茂左衛門と称されている),福井県遠敷(おにゆう)郡上中町の松木荘左衛門(酒井忠勝に貢納大豆の減免を許願し1652年(承応1)に磔刑となる),山形県高畠町の高梨利右街門(米沢藩の重税を老中に許願し,1689年(元禄7)に磔刑となる)などがある。

〔参考文献〕横山十四男『義民伝承の研究』1985,三一書房