50音順    検 索

●義兵運動 ぎへいうんどう

AD 

 自発的な武装部隊が国家に対する忠義を標榜して戦うものを義兵という。

 (1)朝鮮における義兵運動として最初にあげられるのは壬辰倭乱(文禄の役)・丁酉倭乱(慶長の役)に際してである。1592年(文禄1)春から朝鮮は明を敵とする豊臣秀吉の派遣した15万人の大軍の侵入を受けた。当時強力な軍隊をもっていなかった朝鮮は破竹の勢いで北上した日本軍を防げず,わずか2週間で首都ソウルの占領を許し,国王は義州に逃れ,2人の王子を江原・咸鏡の両道に送って義軍を募らせた。陸軍の惨敗に反し海戦では,名将李舜臣の指揮する水軍が各所で日本水軍を大破して制海権を握ったので,日本軍は海路からの補給ができず,咸鏡道を席巻していた日本軍は南下せざるをえなかった。寒さと疫病の流行に苦しめられたからでもある。一方,国内の各地では日本民族の侵入に義憤を感じた儒生・僧侶などが決起し,また民衆もこれに呼応して各地で義兵が蜂起した。これら義兵の大多数は農民であったが,名望の高い前職官僚や儒学者たちの指揮を受けて日本軍を攻撃し,その後方をかく乱したり占領地域から駆逐したりした。時代はさかのぼるが,高麗でも蒙古(元)軍が高麗に侵入した際に民衆が団結して蒙古軍と戦い,敵将を戦死させ,さらには長年にわたって抵抗を続けて蒙古軍を悩ませた。朝鮮には有事の際に郷土の防衛は郷民自身が自発的に引き受けてきた伝統があるからである。

 (2)朝鮮の開国以後では,1895年(明治28)の閔妃殺害事件断髪令を契機に義兵闘争が始まった。日清戦争に勝利した日本は下関条約を結んで清の勢力を朝鮮から一掃したが,三国干渉に屈したため朝鮮では排日親露政策派が強くなり,甲午更張の推進役であった朴泳孝たちを政権から追い出し親露内閣が生まれた。劣勢挽回のため近衛兵・日本の大陸浪人が王宮へ侵入して閔妃を殺害した。これを乙未事変というが,日本は直ちに親露派を追い出して親日内閣を組織させた。この事件はいたく朝鮮の民族感情を刺激した。一方で親日政府は中断していた改革を積極的に推し進めて太陽暦・年号の使用,郵便制度・種痘法の実施,小学校の設立,軍制の改編などを断行し,さらに断髪令まで決定した。しかし,乙未事変と親日派による急進的な改革は排日意識を盛り上げ抗日義兵を生むこととなった。これら義兵の指揮者は大体が徳望のある儒学者で民衆の支持を得ていた。彼らはかつての倭乱の際の伝統を受け継いで祖国を守ることを目標とした。この義兵は官軍と日本軍に攻撃されながらも全国に活動をひろげていった。しかし,圧迫により弱化していき,さらに国王の解散勧告の詔勅によりしだいに終息していった。義兵運動は乙巳条約後に再燃した。

 (3)日露戦争以後,乙巳条約(保護条約ともいう)の締結を契機に,江原・忠清・慶尚・全羅の各道で義兵が,条約の強制的締結は独立国家としての名分を失い国家の危機に直面するとして,従来よりいっそう激しい武装抗争をおこした。閔宗植崔益鉉・申錫などが大規模な組織をもって日本の軍隊・警察と激戦を続けた。

 (4)朝鮮国は1897年(明治30)10月より大韓帝国となったが,その皇帝高宗は1907年(明治40)のいわゆるハーグ密使事件の責を負わされて退位した。また韓国軍隊も解散させられた。この二つの事件を契機に,また義兵の救国運動は全国的に闘争の場を拡大し,さらに義兵戦争へと発展した。弾圧も激しかったが,これには解散させられた軍人も加わって従来よりも激しく,また地域も拡大されて豆満江を越え,北間島や沿海州にまで及んだ。義兵部隊は1907年12月に1万人が集結してソウル侵攻作戦を行ったが失敗した。以後は日本の大規模作戦に直接対応するのが不利であることを知った義兵は山間僻地を根城とする遊撃戦によって抗戦したが,合邦を契機にしだいに衰退した。以後,義兵たちは満州や沿海州に対日闘争の舞台を移していった。