●キプチャク=ハン国 キプチャク=ハンこく
AD
チンギス=ハンの長子ジュチの系統の王朝国家。13世紀中期から16世紀初期にかけて,ロシア東南部のキプチャク草原を中心に東はカザーフ高原,西はクリミア半島,南はカフカズ山脈,北はブルガル地方におよぶ地域を占め,かつロシアの諸公国を従えていた。金帳汗国ともいう。チンギス=ハンは,長子ジュチに対し,チャガタイ・オゴタイと同様に,4個の千戸集団のモンゴル遊牧民を分与し,イルティシュ河以西の地をもって封地に指定した。ジュチの子バトゥは,1230年代後半から1240年代初めにかけ,モンゴル軍を率いて東ヨーロッパ遠征を果たしたのち,東方に引き返し,ヴォルガ河下流域にとどまり,この地方で遊牧するようになった。そして河口近くにサライを築いて都とし,バトゥの兄オルダの白帳家にはウラル東方に,弟シェイバーンの青帳家にはさらにその東方にそれぞれ封地を定めた。こうしてキプチャク=ハン国の基礎ができた。領内の住民は,遊牧民のキプチャク族をはじめとするトルコ系が大部分を占めていた。移住してきたモンゴル人は,その占める割合は小さく,やがてトルコ化し,ハンの発する文書にもトルコ語が使われるようになった。ロシアに対しては,1257〜58年に人口調査を実施し,直接徴税を行ったこともあるが,それはごく短い期間であり,諸侯を介して間接的統治を行った。ロシア諸侯は,その地位をキプチャク=ハン国のハンから授けられるという形式で従属し,毎年貢納を届け,随時,宮廷に贈物をし,駅伝を維持し,戦争のときには軍隊を提供しなければならなかった。13世紀の終わりまでは,バスカークという監督官が,各諸侯のもとに配置されていた。バトゥは,1250年,ムンゲがモンゴル帝国のハン位につくのに大きな役割を果たし,モンゴル帝国領の西部イラン方面の統治には大きな影響力をもっていた。その後継者ベルケ(1255〜66)の時代に,東方でフビライがハンを宣し,モンゴル帝国の統一が破れた段階で,キプチャク=ハン国も事実上自立したことになる。ベルケは,アゼルバイジャン地方をめぐってフラグの建てたイル=ハン国と抗争し,シリアをめぐってやはりイル=ハン国と対立していたエジプトのマムルーク朝と友好関係を結び,文化的経済的交流の途をひらいた。バトゥの孫にあたるマング=ティムール(1266〜80)は,中央アジアのオゴタイ系のハイドゥと元朝との争いにも一役を買った。元朝のフビライの意をうけたチャガタイ=ハン国のバラクとハイドゥとの戦いにさいし,ハイドゥ側に援軍を派遣してバラクを倒し,結果的にハイドゥと講和させた。悪化していた対イル=ハン国・元朝関係も,14世紀に入ってから和解が成立した。ウズベック(1312〜40)・ジャニベク(1340〜57)両ハンの時代,両国とのあいだに使節の往来がみられ,内外とも状勢が比較的安定し,キプチャク=ハン国の最盛期といわれる。ベルディベク=ハン(1357〜59)のあとは,権力闘争が激化し,1360〜80年の20年間にハン位についた者が14人に達したほどハンの交替がめまぐるしく,分裂状態に陥った。1380年,オルダ系統の白帳汗家のトクタミシがハンになると,ベルディベクの女婿でヴォルガ河以西で権勢をふるっていたママイの軍を破り,1382年には,台頭してきたモスクワ侯国を討ってロシアの諸侯を制し,退勢の挽回をはかった。まもなく東方から現れたティムール軍と,1389,1391,1395年の3たび戦って敗北を喫し,大きな打撃を受けた。その後も,白帳汗家よりハンが出たが,分裂傾向は変わらず,15世紀に入って,バトゥの弟トゥカ=ティムール系統のウルグ=ムハンマドがヴォルガ中流域,カザンを中心とする地方にカザン=ハン国を,同系統のハージ=ギレイがクリミア半島・黒海北岸にクリム=ハン国をそれぞれ建てて自立した。のちにはドン・ヴォルガ両下流域にアストラハン=ハン国ができた。クリム=ハン国のメグリ=ギレイは,モスクワのイヴァン3世と結んで,ついに1502年にキプチャク=ハン国を滅ぼした。1552年には,カザン=ハン国,1554年にはアストラハン=ハン国がロシア勢に倒された。クリム=ハン国のみが,オスマン=トルコの従属国となってなお存続し,最終的に1783年にいたってロシアの支配下に入った。