50音順    検 索

●騎馬民族説 きばみんぞくせつ

アジア 日本 AD 

 5世紀に入るころ,東北アジア系の騎馬民族が在来の王朝を倒して,日本列島に征服王朝を樹立したという江上波夫(1906〜)の学説。1948年(昭和23)に,石田英一郎・岡正雄・八幡一郎との座談会で提起された。

 この学説は,東アジア史のなかで深められたもので,その論点も多岐にわたる。以下にそのうちとくに主要と思われる論点を四つ掲げておく。

【古墳にみる副葬品の変化】江上は,わが前期古墳にみた宝器的な副葬品が,4世紀末を境に金色輝やく装身具や新鋭の武器に変わり,馬具まで加わる点を重視する。これを呪術的・平和的なものから,現実的・王侯貴族的性格への変化とみる江上は,それを征服民族が東北アジア系騎馬民族文化複合体を一体として,日本列島にもたらした結果とする。保守的な農耕民の手で成し遂げた変革とは考え難いというのである。

【神話・伝承の検討】記紀に記される天孫降臨説話は,南鮮六伽耶国の建国説話と重要な点で一致する。しかも記紀には,天孫の故地が韓国であったことが暗に示されている。また神武東征の説話は,東北アジアの夫余ならびにその別種といわれる高句麗の建国伝説と,モチーフが共通している。これは外来の天孫民族に,夫余や高句麗の建国伝説が伝承されていたことを意味する。二つの神話・伝説からうかがえるのは,天孫系の渡来コースが,夫余・高句麗→伽羅・任那→北九州→畿内であったということである。この場合,ニニギノミコトとして記される,伽羅から北九州に渡来した人は,崇神天皇と考える。ミマ(ナ)の宮城に居住した天皇すなわち御間城天皇と呼ばれると同時に御肇国天皇の称号が与えられた所以である。また,神武天皇として北九州から畿内入りしたのは筑紫出身と記される応神天皇だったろう。考古学上の資料がこれを裏付けている,というのである。

【倭国王の称号から】倭の五王は中国の南朝に遣使し,あるいは自ら使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王と称し,あるいは使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東将軍倭国王と号した。新羅・百済とその前身の秦(辰)韓・慕(馬)韓が重出している。何故に同じ土地のすでにない国名を加えたのか。単に国数を増すだけの目的なら,三韓の一つである弁韓を含めてよい。これは三韓時代に南朝鮮のすべてが倭王の支配下にあったから,いま独立国である百済等も倭国に属すべき歴史的根拠を示したものである。ただ任那は現実に倭国の影響下にあったから,弁韓の名は省略した。

 三韓時代に,馬韓月氏国に辰王がいた。彼は外部から流移した人だが,当時南朝鮮最有力の支配者であった。のちに倭国王が南朝鮮支配の歴史的根拠を示したのは,かれが辰王の子孫あるいは継承者を自認したからである。南朝鮮出自の崇神は筑紫に進出し,倭韓連合王国を形成し,そこを拠点に倭国征服事業に着手したのであろう,と考える。

【後続した渡来人】4世紀末から5世紀代には,朝鮮半島や大陸から新技術をたずさえ,多くの人が日本列島に移住した。これは元の統一後に,西域から多くの人を迎え入れたことに示されるように,遊牧系民族による征服王朝樹立にさいし,つねに認められる方式である。日本のそれも例外ではあるまい。

【学説の評価】騎馬民族説が公表されてから,40年近い年月が経過した。江上説に対する批判は依然多く,現在でも学界に定着したとはいえない。しかるに他学説と異なり,学史上の一説として棚上げされないのは何故であろうか。五胡十六国の混乱期に南下したツングース系の騎馬民族という設定が示すように,江上学説が東アジアの歴史・民族・考古・神話等諸学にまたがる壮大な構想に立脚しているからであろう。部分的批判は決定的な否定となりえないのである。たしかに騎馬民族説には,証明し得ない矛盾点が多く含まれている。それでもなおこの説によって解釈が容易になる古代史上の問題が多いのもまた事実なのである。