●紀年法(東洋) きねんほう
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紀年法は,特定の年を紀元と定め,それから起算した経過年数を年代で表す方法である。起算年である紀元は,政治的・宗教的あるいは天文学的など各種の根拠によって決められたことが多く,そこには国情や民族性などの特殊性が反映され,時代による推移なども認められる。現在世界で最も多く使用されているのはキリスト紀元=西歴であるが,東洋でも古くから各種の紀年法が用いられてきた。そこで東洋に関する主要な紀年法を国別に挙げてみれば,概略以下のとおりである。【中国】中国では,殷周時代を通じて新王即位の年数が使用され,周末には木星(歳星)の位置によって年を数える歳星紀年法が補助的に採用された。その後天象との関係を断ち,干支(えと)あるいはそれに関連する特別な呼称で年を数えることがおこった。前漢の武帝のころから元号によって年を数える風が始まり,前140年を建元元年と呼んだ。それ以後,元の終りまで一王のもとで普通2個以上の元号が用いられたが,明の太祖(元号は洪武)のときに,君主1代は1年号を用いる,一世一元の制が確立され,清に継承された。中華民国の成立(1912)に伴い,太陽暦が採用されると,革命紀年ともいうべき民国紀元が採用された。これらのほか,伝説上の皇帝で,漢民族の始祖とされる黄帝を記念した黄帝紀元が一部で使用された。
【日本】日本では,古くから天皇の即位以来の年数で年を数える法が行われていたが,中国からの暦法の伝来などにより,干支紀年も早くから併用された。また,孝徳天皇のときに大化の元号が制定され(645),元号紀年法が採用された。日本での元号の初見は法興であるが,正式制定以前のもので,このようなものを免年号と呼んでいる。大化以後連続して元号が用いられるようになったのは文武天皇の701年(大宝1)からである。当初は天皇1代で幾度も年号を変える「改元」がしばしば行われていたが,1868年9月8日,慶応から明治に改元のさい,一世一元の制が定められ現在にいたっている。なお,建国以来一貫した紀年法を用いようとする試みがあり,神武天皇が橿原宮で即位した年(前660)を元年とする神武紀元(皇紀)という名称(前660年を皇紀1年とし,昭和60年は皇紀2645年)が明治初年から用いられるようになった。とくに第二次世界大戦中は軍部を中心にその使用が強力に主張されたが,戦後になって公的には使用されないようになった。現在では西歴と元号が併用されている。
【インド・アラビア】インドは,その復雑な民族性を反映してか古来から数多くの紀年法が考案・使用されてきた。それらのうち幾つかは,現代でもインドおよび周辺諸国家で用いられている。主要なものとしては,ネパールから北西インド一帯にかけての,グプタ朝の始祖チャンドラグプタ1世の即位の年(320)から数えるグプタ紀元。北部インドの,ヴィクラマーディトヤ王がシャカ族に勝利をおさめた年(前57)から数えるヴィクラマーティトヤ紀元,ハルシャ=ヴァルダナ(戒日王)の即位の年(605)から数えるシュリ-ハルシャ紀元,カニシカ王の即位の年(129)から数えるカニシカ紀元,中部インドの,シャカ族の王が西北インドを征服した年(78)に始まるシャカ紀元などがある。また,セイロンからタイにかけては,仏陀寂滅(しゃくめつ)の年(前483ごろ)を元年とする仏滅紀元がある。さらに,ジャイナ教徒間では開祖ヴァルダマーナの死んだ年(前527)を元年とするヴァルダマーナ寂滅紀元が行われている。アラビアその他のイスラーム諸国では,現在でも多数のイスラーム教徒によってヒジュラ(ヘジラ)紀元が使用されている。これはムハンマドがクライシュ族の大商人の迫害をさけ,メッカからメディナに逃れた年(622)を紀元元年とするものである。ヒジュラ紀元の元年,第1月の第1日は7月16日にあたる。なお,イスラーム教徒間では純太陰暦が用いられ,1年の長さを354日もしくは355日とし,年月の数え方も現行の太陽暦とは異なっているので注意を要する。