●絹(日本) きぬ
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4世紀に入ってから朝鮮の文物が日本に伝えられ,帰化する人々も増し,桑蚕(くわこ)などの野生の蚕から糸をとって織物に仕立てる技術が伝えられたとみられる。しかし,大陸から伝わる以前,縄文末期ごろから,山繭(やままゆ)や天蚕(てんさん)などから糸を取ることを知っていたという説もある。応神天皇の14年に中国人融通王が127県の秦民をつれて日本に帰化し,養蚕・絹織をして貢納したと伝えられている。大陸伝来の織物は絹だけではなかったが,王家では,絹を最も重視して貢納させていた。帰化人のつくるこの製品は,当時目を見張る貴重な織物であった。同16年には百済の昭古王から絹吊を織る工人が派遣され,名を西素といったが,俗に「久禮波止里」(くれはとり)と呼ばれ,のちに「渡多公」(はたのきみ)の姓を与えられ,子々孫々機織りの技術をもって朝廷に仕えた。5世紀末ごろ,百済の努理使主の5世の孫,麻利(まり)とその弟禰和(みわ)に絹・あしぎぬの製品をつくらせ,これを諸国の工人に手本として織らせて貢納させるなど,積極的な技術向上をはかっている。しかし,こうした生産奨励も支配階級自身のためのもので,庶民は絹織物をまとうことはなく,すべて上納を強制されていた。
645年(大化1)には,旧来の秦民92部・1万8,670人の工人を支配していた服部連(はとりのむらじ)と太秦公宿祢(うずまさのきみのすくね)をして,その支配組織をもって織部司(おりべのつかさ)として中央政治支配体制のうちに組み込んでいった。大宝令の織部司には桃文師・桃文生のほか,染戸数,100戸を付して錦・綾を織らせ,711年(和銅4)には,諸国に織部司から製織技術伝播普及のため人を派遣し,調貢のために積極的な生産体制をとった。しかし,貴族政権の衰退とともに織部司も衰退し生産減少をもたらした。鎌倉時代には,加賀・丹後・尾張(八丈絹)など数カ国が絹織生産物をあけるに過ぎず,正平年間(1346〜1370)に周防の大内氏は領内で絹織生産をはかって京都から職人を山口に招いて絹帛を織らせて追々盛んになったと伝えている。応仁の乱によって伝統的な織技術をもつ京都は荒廃したが,乱後に四散した織人たちが,白雲の原野に集まり始め,京都の今出川通の北に当たる地で白雲村の機業が始まった。1588年(天正16)に豊臣秀吉は,白雲村の地は井水が悪いために,新在家の地に移らせて保護した。これが,西陣機業の基となるにいたった。室町末期から江戸時代初頭にかけて東南アジア・西洋の国々との往来があり,それに刺激されて,さまざまな織法や紋様を生みだした。金銀のモールやビロードなども案出された。江戸時代の初め中国産の生糸(白糸〈しらいと〉と呼んだ)が輸入され,高級生糸として取引されたことからも知られるように,製糸技術の発展は中国よりおくれたのである。このため白糸は日本商人が高価に買いあさり,外国商人に漠大な利を与えたので,1604年(慶長9)にポルトガル・オランダ・中国による利益独占を排除するため,幕府は糸割符仲間(いとわっぶなかま)をつくらせて輸入生糸を一括独占購入させた。この商法を“糸割符”と呼ぶ。しかし江戸時代中ごろから国内の養蚕・製糸業が急速に発達して,白糸の輸入の必要が減少したので,この商法も幕末ごろには有名無実化した。
江戸時代,農民の生産性向上に伴って,農間余業としての養蚕・製糸は,しだいに盛んになり,各地に絹織物の産地が生まれた。そのいくつかにふれておこう。甲州の郡内縞は〈色いろいろ,玉むし類多し,海気に似たるによってぐんない海気といふ。紋織・ひし織等もあり,総じて此郡内しろ縞織色とも,甲州谷村の辺より出るは上品なり〉(『万金産業袋』)と多様な製品をつくり出し甲斐絹(かいき・海気)の名で知られた。上野国藤岡のあたりで生産される上州絹は〈夜着・ふとん地・あるひは下帯地にす。所にては月々に日を極め,絹市あり,所々にて日限相違あればこれを畧す。上方又は江戸表よりの絹置みな出て買ふ大市也〉(『万金産業袋』)とあって絹市がたち,京坂や江戸の商人で賑う様子が知られる。加賀絹も,当時の名産として知られ,その製品は〈地性は至て強くして,糸の素性,絹るいの中にて勝てねばく剛し,絹の節をとる時,指してつまみ,むしれば,切ずして糸ひける也〉(『絹布重宝記』)とあって独特の糸質によって知られた。また,羽二重は,ことに京羽二重が知られ〈京羽二重は日本絹の第一の織物,迚も是にはまさらず,糸の極めてさいみつにして,こぶしもなく,模様を染る,外の絹の及ばぬ事也〉(『譚海』)として知られた。また,唐織絹として知られる筑前の博多織は,天正年間(1573〜91)竹若伊右衛門によって創始されたと伝え,福岡藩の代表的名産で頼山陽も「一胯万銭虚価に非ず」と称揚しているほどである。『筑前国続風士記』に〈古しへ博多に唐土船来りし時,習ひて織出せり,其時節は,博多に織工の家七十軒残りて,織物をして諸国に販けり,博多より織出せし帛のきれ,今日に残りて珍具となる〉とある。このようにして,江戸時代中ごろから各地に独特の風あいをもつ絹が織られ,しだいに庶民の上層部の者たちに普及していった。
【絹の種類】生糸を湯に漬けて練り上げた糸を練糸という。また撚った糸を経緯として織った帛絹(はくのきぬ)も絹の一つである。織ってから練り上げたものを練絹(ねりぎぬ)と呼んでいる。織立て方によって色々の名称がある。『貞丈雑記』に〈ねりぬきと云は,絹の名なり。絹のたて糸を生糸にして,ぬきをばねり糸にて織りたる物故,ねりぬきと云也,されば文字にて練緯と書くべき事なれども,昔より練貫とも書来れり,(中略)さて此ねりぬきに,しヾらのねりぬき,のしめのねりぬきとて,二の品あり,しヾらのねりぬきをば,今しヾらのしめと云,のしめのねりぬきをば,今はのしめとばかり云也〉と記している。ここにある「しじら」とは,経糸を生糸,緯を練糸で織ったものを練緯(ねりぬき)と呼び,着地に皺がでることから「しじら」とも呼んでいる。『貞丈雑記』はさらに〈しヾらのねりぬきは,昔は男も女も着る物也,のしめのねりぬきは男の着る物にあらず〉と述べている。
【近代の絹】江戸時代の中ごろ「田舎端物」と呼ばれた地方絹織物を基盤として全国的な商品流通組織が形成されていた。明治期に洋式織機が導入されて急速に生産を向上させ,これとともに桐生生産の羽二重を先導として輸出絹織物が伸長した。輸出量の増加につれて産地がひろがり,ことに福井地方の羽二重は,明治20年代には桐生に代わって日本一の羽二重産地となった。しかし,絹業の場合には製品輸出より,原料の生糸輸出が主体となり,明治政府は群馬県富岡に1872年(明治5),官営富岡製糸所建設に示されるように積極的な製糸業の洋式化をはかった。大正期に日本は世界最大の生糸の生産と輸出の国となった。輸出依存の結果,蚕糸業は海外経済の動向,ことにアメリカの景気に左右されることが多く糸価の不安定のため,投機的性格が強かった。しかし,明治以来絹は日本の輸出品の第1位を占め,これによって日本の経済的支柱として近代化に大きく貢献した。昭和初年ごろから人絹織物の発展,和服から洋服への衣服の趣好の変化に対応して,絹織物は全体として衰退の傾向がみられる。