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●絹(中国) きぬ

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【原始より先秦時代】中国において養蚕・絹は黄帝の妃で西陵氏の女が発明したという伝説がある。その伝説を初めて明確につたえているのは『惟南王蚕経』であるが,この書物はすでに散逸しており,しかも宋代以前の文献には引用されたことがない。ただし南北朝時代には西陵氏が養蚕の神として祭られているから,そのころすでに養蚕が発明されていたという伝説が成立していたものであろう。こうした伝説から離れて養蚕・絹の起源を考えると,古く新石器時代までさかのぼることができる。1926年(民国15),山西省夏県西陰村の仰韶文化遺跡で半個の繭殻が発見された。この繭殻について布目順郎氏は家蚕やクワコよりかなり小さく,ロンドシア=メンシアナの繭であるとした。ただしこの繭は一方の端が切断されていることから,中の蛹を食用に供したものであるが,しかし紡績に用いられたことも考えられないことはない。西陰村の遺跡からは紡錘車が2個出土しているのである。ただロンドシア=メンシアナの繭から長繊維の繰糸を行うのは容易でなく,そうした蚕糸による絹織物は日常の衣料でなく,何か特殊な用途に使用されたものと推測される。その後1958年(民国47),浙江省呉興銭山漾の新石器時代の遺跡から絹織物が発見された。絹片・絹糸などであるが,絹片の原料は家蚕,織り方は平織り,経緯の密度は1平方cmにつき48本である。またその翌年,江蘇省呉江県梅堰鎮の新石器時代の遺跡で蚕紋のある黒陶が発見された。このように出土例は多くないが,中国の新石器時代,華北・華中の一部で養蚕・絹が始まっていることがわかる。

【殷以降】その後,殷代に入ると,衣料のための絹織物生産が行われ,しかも製品のなかにはかなり精巧なものが現れるようになる。殷代の甲骨文に蚕・桑・糸・帛などの字がみえる。また殷代の青銅器に附着した絹織物の断片も出土している。利用された蚕は家蚕のほか,野蚕もある。家蚕の品種の改良はみられないが,家蚕から糸を繰り取る技術,織法などはかなりすすんでいる。とくに織法では平絹のほか,綺(あや織りの一種)も現れ,文様は複方格文である。これを織るには十数個の綜(そう)を必要としたと推定されている。また刺繍の痕跡も発見されている。ところで絹織物の生産は戦国時代から漢代にかけて大幅に上昇する。まず産地であるが,戦国時代に成立したとする説が有力な『書経』禹貢篇に生糸・絹織物を貢納する地域としてエン※注1※・青・徐・揚・荊・豫州の六つの州が挙けられている。今日の山東・河南・河北・湖北・湖南・浙江などの省にあたる。

【漢より六朝時代】漢代もこれとほぼ同じであるが,ほかに蜀つまり四川省が加わる。漢とくに前漢は都の長安に織室と呼ばれる宮廷直営の織物工場が設けられ,また絹織物の特産地である陳留郡襄邑県(河南)や斉郡リンシ※注2※県(山東)に服官と呼ばれる宮廷直営の衣服・織物工場が設けられた。さらに漢代は絹織物の特産地に専門の手工業者が発生しているし,農村副業としての絹織物生産も盛んになっている。漢代の絹織物は文献にみえるだけでなく,出土品も多い。出土の絹織物に平絹・紗・羅・綺・錦・綾などがあり,刺繍品や染色品もある。高級絹織物で出土が多いのは錦で,漢代の場合はほとんど経錦である。また特殊な錦としては湖南長沙馬王堆一号墳などから出土した起毛錦がある。これは3本単位の経糸で紋様を織り出し,それにパイルの経糸が加わり,4重の組織となっている。漢代の織機は当時の画象石にみえているが,すべて傾斜機である。それは機座の前端に坐板があり,後端に機架が設けられているが,機架は機座に対して斜めに置かれている。これは平絹用のもので,錦・綺・羅などを織るために花機も存在したが,当時は40ないし50の綜が使用されたのではないかと推定されている。漢代の絹織物は国内に流通するだけでなく,国外とりわけ西方の国々に流出するようになる。絹織物が西方の国々に流出した道がシルクロードと呼ばれるものであるが,元来はドイツの地質学・地理学の研究者フェルディナンド=フォン=リヒトホーフェン(1833〜1905)がいい出したザイデンシュトラーセンということばにもとづく。シルクロードはアオシスルートが代表的であるが,ほかに北方の草原ルート,南方の海洋ルートがある。アオシスルートの利用がはっきりするのは前漢張騫が西域に旅行した以後である。武帝の前111年(元鼎6)には酒泉郡が置かれ,それ以後西北諸国との交通が盛んになり,安息・奄蔡・黎軒・身毒国などに使者が派遣されているが,こうした使者によって各国に絹織物がはこばれた。ただし,そうした使者には商人が従う場合が多く,絹織物と外国の特産品を交換した。こうしたアオシスルートに沿って漢代の絹織物が出土している。東の方では甘粛の武威磨咀子や嘉峪関から平絹・綺・紗・羅・錦など,その西,新疆ロプノール地方から平絹・綾・錦などが出土している。さらに西の西域南道の中間に尼雅(ニヤ)の遺跡があり,ここから絹織物の衣服などが発見されている。シルクロードの終りに近いシリア−アラビア砂漠のなかにあるパルミラの遺跡でも50片の絹片が出土し,大半は平絹であるが,綾も含まれている。ただし中には中国産でないのもある。草原ルートで漢から直接絹織物を手に入れたのは匈奴で,その絹織物には錦・繍・綺・穀などの高級品,帛などの一般品がある。前漢宣帝から哀帝にかけてとくにその数量が増加し,たとえば哀帝の前1年(元寿2)には錦・繍・綺・穀・雑帛合わせて8万4,000匹にのぼっている。この草原ルートからも絹織物が出土しているが,モンゴル人民共和国のノイン=ウラの古墳のが有名で,出土の絹織物に平絹・綾・紗・錦などがあり,とりわけ錦が多い。錦は山岳双禽樹木文錦・雲気神仙文新霊錦・雲岳禽文錦・獣華雲文錦などにわけられ,いずれも漢代に流行した文様・図案が織り出されている。さらに西の方ではパズィルィク,オグラクティの遺跡から漢代の錦が発見されているし,またキルギス共和国のケンコール古墳群からも中国製の絹織物でつくられた衣裳が発見されている。海上ルートは後漢に入って盛んになったようである。ただローマ帝政期につくられた『エリュトゥラー海案内記』によると,セーレス(中国)の羊毛・絲・織物(絹織物)は陸路でバクトリアからインドの方にはこばれ,インド西岸の各港から海路で西方におくられたとされ,インドまでは陸路で,そこから海路になったというコースもあったようである。魏晋南北朝時代,絹織物生産は一時衰えたが,唐代になって再び盛んになった。

【唐宋時代】唐代はそれ以前にくらべて絹織物の産地が拡大している。それは調を負担する地域によって絹・シ※注3※など普通品の産地,土貢を負担する地域によって錦・綾・羅など高級品の産地がわかるが,一般品・高級品とも唐の半ばまで河南・河北道が主産地であり,その後山南・淮南・剣南・江南などの諸道における生産が盛んになっていく。唐代は都の長安と地方の特産地に宮廷直営の織物工場が設けられた。長安に設けられたのは織染署である。地方のは洛陽に官錦坊が設けられているが,他は明らかでない。特産地の都市には独立手工業者が増加しているが,多くは家族労働によるもので,その規模は大きくない。農村では均田制下の農民は国家から20畝の桑田を支給され,養蚕さらに絹織物の生産を行うことになっていた。そして調として綾・絹・シ※注3※のうち一つを2丈,綿3両を負担する制度であった。ただし実際受けた桑田は規定額と相違する例が多いことは敦煌出土の戸籍によって明らかである。両税法施行以後は戸によって絹織物の生産高が相違し,したがって納税額にも差が生ずることになる。唐代の絹織物の遺品は敦煌莫高窟・トルファン・巴楚などから出土しているし,わが国の正倉院・法隆寺にも保存されている。その種類に平絹・綺・綾・錦・羅・紗・シ※注3※・椴子風紋織物・剋絲(綴錦)・刺繍品などがあり,それらは織法やデザインによってさらに細かく分類される。たとえば錦についていうと,新疆トルファン=アスターナ出土のものに青色地瑞花錦・藍地棋局紋錦・瑞獣紋錦・対鴨錦・小團花錦・熊頭紋錦・天馬騎士錦・鹿紋錦・宝相花紋錦などがあり,また経錦の他緯錦も現れる。織機は魏晋南北朝から唐代にかけても傾斜機を使用するところが多かったが,機織の盛んな地方には水平機も行われていたのではないかと思われる。高級品は花機が使用されたものであろう。唐代,都市の市には絹織物を取り扱う商店がかなり現れている。長安の西市に絹行があったことは『太平広記』巻363にみえる。絹行とは絹織物を取り扱う同業商店の町である。こうした同業商店の町が地方にもあったことは河北省房山の石碑に范陽郡(河北大興県)の絹行・絲帛行などがみえているし,トルファン出土の文書に交河郡(新疆トルファン)の綵帛行・帛練行などがみえている。外国との絹貿易は玄宗の開元年間(713〜741)まで法令によって制限されていたが,それ以後は絹貿易がかなり行われている。絹貿易といっても贈与や互市の形式によって絹織物が外国に流出したもので,そうした形式により突厥吐蕃・カイコツ※注4※・奚・新羅などの諸国に絹織物がつたわっている。互市の場合はとくに異民族との絹馬貿易が多かったようである。宋代に入り絹織物業はさらに発展をとげた。この時期,養蚕・絹織物の中心地は黄河流域から揚子江流域へとうつっていった。『宋会要輯稿』に北宋の時代,全国各地から租税および天子に献上する上供として納入された絹織物について地域・種類別に数量が記載されている。それによると,黄河流域の地方から租税として納入された絹・紬・綺綿は全国合計の約3分の1であるが,揚子江中下流のは全国合計の約半分に達している。また上供にいたっては揚子江中下流の比率はさらに大きくなり,絹が約72%,紬が約81%,絲綿にいたっては約94%となっている。南宋時代は北方が異民族の金の支配にあったため養蚕量は衰え,南方の養蚕業・絹織物生産が盛んとなった。北宋時代,官営の絹織物工場としては,都の開封に綾錦院が置かれている。また地方では西京(河南洛陽県)・真定府(河北正定県)・青州(山東益都県)・益州(四川成都県)・梓州(四川三台県)に場院が置かれている。場院では錦・綺・鹿胎・透背を織る。さらに江寧府(江蘇江寧県)・潤州(江蘇鎮江)に織羅務,梓州に綾綺場も置かれている。また四川の成都に錦院があり,北宋1083年(元豊6)のころ,織機が154台で,提花工・織工・染工・紡績工それぞれ分業になっていた。都市には染織の専門業者が現れ,『東亰夢華録』によると,北宋の都開封に繍作・染店などがみえている。中にはかなり大規模な経営を行うものも現れている。台州(浙江臨海県)の知州,唐仲友がその郷里の要州(浙江金華県)で彩帛鋪を営み1度に暗花羅ならびに瓜子春羅300〜400疋,紅花数100斤,紫草1,100斤を買い入れ,加工して売り出し,これが朱熹により弾劾されたといわれている。また農村では宋代あたりから養蚕・製糸・機織がしだいにわかれる。宋代の絹織物の種類は従来と同じく平絹・シ※注3※・紬・綾・錦・羅・紗・刺編・剋絲などがある。それぞれにまた各種のものがあり,錦に紫宝階地錦・紫大花錦・五色箪文錦・青緑箪文錦・紫百花龍錦・紫亀紋錦・紅霞雲鸞錦・毬路錦・八花暈錦など,綾に碧鸞綾・碧花綾・大花綾・仙紋綾・重蓮綾などがある。剋絲もいろいろな画図を精巧に織り出すようになるが,この主産地は定州(河北定県)である。また鹿胎・透背などが宋代初めて現れたが,鹿胎は鹿の胎(子宮)と紋様が似たもので,紫地白花もしくは紅地白花のものでないかと考えられている。宋代,商業の発達に伴い,絹織物が広く流通するょうになるが,内藤湖南氏によると,漢から唐までは朝廷もしくは貴族の需要に応じるためにつくられることが多かったが,宋のころから民衆相手の大量生産が始まったという。国外との貿易は唐代中期以降陸路の交通が衰え,代って海上交通が活発になった。貿易をつかさどる市舶司が広州(広東)・杭州(江蘇江都県)・泉州(福県)などに置かれ,これらの港にはアラビア人・インド人・南洋諸国人が多数来り,そのため蕃坊と呼ばれる居留地が設けられた。中国へ輸入されたものは真珠・蕃布(木綿)・香料・薬材,中国から輸出されたものは絹織物が第1でほかに銭・陶器などがあった。北方の契丹・西夏・金などとも官私の貿易が行われたが,中国への輸入品は馬・毛皮・人参など,中国からの輸出品は絹織物・茶・銭・陶磁器などであった。なおわが国と宋とのあいだでも貿易が行われたが,入宋僧成尋が宋帝の質問に答えたところによると,わが国の重要輸入品は香薬・茶碗・錦・蘇芳であったという。錦は唐錦と呼ばれ,とりわけ四川地方の蜀錦が有名であった。ほかに綾も唐綾と呼ばれて愛好されたが,呉郡の綾が有名であった。

【元・明・清】元以後は綿花の栽培が拡大し,蚕桑の生産は地域的に限定されれようになる。明代は江蘇・浙江が最も盛んであった。とりわけ浙江西部の嘉興や太湖地帯の養蚕業は技術的に高く,優良な生糸・絹織物が生産されていた。ほかに北では山西,西では四川が有名であった。清代も江蘇・浙江が中心地で,四川・広東がこれについだ。広東はもと蚕糸業・絹織物業は生産量が少なく,品質も劣っていたが,清代末期に生糸の生産量は江蘇・浙江に迫り,四川を追いぬくようになった。このように明清時代,河北・山東などの北の絹織業が衰え,もっぱら南方が絹織物の主産地となった。当時の絹織物の生産形態をみてみると,官営工場が南方の特産地に設けられている。清代についていうと,江寧・杭州・蘇州に絲織局が置かれた。これらの絲織局はとくに乾隆年間に入って大きく発展し,『大清会典事例』によると,1745年(乾隆10),江寧では織機600台,織物工1,780人,紡績工・染色工・監督777人,蘇州では織機663台,織物工1,932人,刺繍工・監督243人,杭州では織機600台,織物工1,800人,紡績工・染色刺繍工・監督530人が数えられていたという。こうした官営工場で生産された絹織物はおもに皇室の需要を満たすためのものであった。次に民間の絹織物業についてみると,とりわけ江蘇・浙江の農村において養蚕や絹織物業が盛んに行われた。多くは家族労働による零細経営であるが,中には織工を雇い,小商品生産を行うものも現れる。蘇州呉江県南部の盛沢鎮は明代初期青草灘と呼ばれ,戸数50〜60戸の小さな村だったが,明代中期に蚕糸業が発達し,明代後期には絹織物の集散地となり,牙行(仲買人)が1,100余家にものぼり,四方から客商が買い付けに集まったし,また盛沢鎮には30〜40台の紬機を置き,絹織物生産を行うものがあったことが『醒世恒言』にみえている。織工を雇い,絹織物の商品生産を行うのを機戸・機坊と呼ぶが,これは江寧・杭州・湖州・蘇州などの都市に多く現れている。蘇州の場合をみると,蘇州城内は西部が商業地区,東部が染織工業地区である。『明実録』によると,明の1601年(万暦29),新たに織物税が設けられ,機戸はそのため織工を解雇しようとしたので,反対した織工の焼打ち事件がおこっているが,そのとき曹時聘が「染坊罷めて染工散ずるもの数千人,機坊罷めて織工散ずるものまた数千人」と上奏したという。明代すでに多くの機戸・染坊があり,それぞれ織工・染工を雇い,絹織物業を営んでいたことがわかる。清代はさらに盛んとなり,『乾隆元和県志』は東城は軒並みにみな機屋で,万軒どころではないとしており,多少の誇張はあるであろうが,その繁栄ぶりがうかがわれる。また『康煕蘇州府志』によれば,東城には機戸が多く,労働者は労働の日数によって賃金を受け,それぞれ雇用主が決まっていた。また雇用主のない労働者のために毎日黎明に労働市が開かれ,椴子の工人は花橋に立ち,紗の工人は広化寺橋に立ち,絹絲の加工を業とする車匠は濂渓坊に立ち,什百群をなして機戸の雇入れを待ったとされている。このように明清時代,機戸が資本を出し,機工が力を出すという状況がかなり広く行われるようになっているが,またとくに清代,賑房による絹織物業の経営が現れる。賑房とはわが国の本機屋で,生糸を買入れ,これを料房(紡車を用いて撚りを入れるもの),打線匠(車に依らず,架子を用いて撚りをかけるもの),染坊(染め屋),槌絲匠(染められた糸を打ち,柔らげてつやを出すもの),絡絲匠(以上の工程をへた糸を繰りうつすもの),機房(織り屋),挑花匠(紋様を考案するもの)などに託して必要な作業を行わせるものである。明清時代の絹織物の種類は平絹・錦・綾・羅・紗・穀など従来とはあまり変りがない。ただ素地が密で光沢のある厚手の絹で,無地域は絞様のあるものが明以降椴または椴子と呼ばれて多くつくられた。『天工開物』によると,多くの布帛類は生糸のまま織るか,または織り上げてから練って染めたが,椴は「まず糸を染めた後で織る」もので,北方では屯絹と呼ばれたとしている。また太い糸で織る紬は明清時代以前からもあったが,明清時代綢と呼ばれ,大量に生産されて庶民に喜ばれた。当時の織機については『天工開物』に説明がある。それによると,高級品を織るのは花機である。これは大機で,織工と紋様を織るために経糸をひきあげる提花工によって操作される。腰機は小機で,一般品を織るのに用いられるが,織工は1枚のなめし皮を腰のあたりに着け,織工の力はすべて腰と尻とに入れる。それで腰機と呼ばれるとされる。清代光緒年間の末年(1907ごろ)にはまず漢口で洋式織機「ジャカード」が輸入され,その後,杭州でも用いられて椴子の織造では南京を凌駕するようになり,しだいに他の地方にもひろがってゆく。明清時代,生糸・絹織物は中国の重要な輸出品であったが,ときには制限を加えたりした。たとえば清代乾隆年間の初め(1736ごろ)輸出品が増加し,価格が騰貴したため完全に輸出が禁止された。しかしイギリス商人の再三の要求により1762年(乾隆27)にイギリス商船1隻につき土糸(広東産生糸)5,000斤,2級品の湖糸(湖州産生糸)3,000斤の輸出は許可したが,1級品の湖糸,紬・綾・緞については一律に輸出を禁止している。こうした生糸・絹織物の積荷制限令はこの後1827年(道光7)までしばしばイギリスの東インド会社の記録にみえているが,こうした制限が行われたにもかかわらず中国生糸のイギリスへの輸出は緩慢な増加をたどった。そしてアヘン戦争後,1842年(道光22)に結ばれた南京条約により上海が開港され,湖糸の自由貿易が始まるが,その結果,上海に近い浙江の嘉興・湖州地方の蚕糸業の繁栄が促進されるとともに太湖周辺とりわけ無錫,さらに浙江の銭塘江両岸一帯の蚕糸業も盛んになった。ただし絹織物の輸出は日本・欧州の機業の発達の影響を受けて減少の傾向を示した。

〔参考文献〕佐藤武敏『中国古代絹織物史研究』上・下,1977,1978,風間書房

布目順郎『養蚕の起源と古代絹』1979,雄山閣

吉武成美・佐藤忠一『シルクロードのルーツ』1982,日中出版

加藤繁『支那経済史概説』1944,弘文堂

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