●畿内 きない
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元来は中国で行われた制度で、王城の周囲方1,000里の地をいい、天子の支配が直接に及ぶ地域として重視され、特別の待遇が与えられた。
【大化の畿内制】わが国における畿内制の実施は大化に始まる。『日本書紀』によると、645年(大化1)6月に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らによる蘇我氏打倒のクーデターが行われ、翌年の大化2年正月には政治改革の大綱を示す改新の詔(みことのり)が発せられたが、その語のなかに畿内を置くことが述べられている。それによると東は名墾(なばり)の横河(よかわ)、南は紀伊の兄山(せのやま)、西は赤石(あかし)の櫛淵、北は近江の合坂山(おおさかやま)の4点で示される範囲が畿内とされている。このうち名墾は伊賀の名張、赤石は播磨の明石を指すが、このように東西南北の4点によって範囲を表示する畿内制は、のちに行われた国を単位とする畿内制とは性質を異にし、中国北魏の平城を中心とする畿内制を採用したものであるといわれる。しかしこれに対して、4点による表示と内部の行政区画とは相補う関係にあるから、大化の畿内も実際は国によって構成されていたとみて、平城型の畿内制との関係を否定する説もある。大化の畿内制で最も問題となるのは、それがはたして大化当時に実際に計画され、実施されたものであるか否かということであり、畿内制について規定している改新の詔の史料としての信頼性の問題ともからんで、畿内制の実施を天智朝(662〜671年)あるいは天武朝(673〜686年)にまで下げて考える説が有力であった。その論拠は、畿内の範囲を表示する4点が大和を中心とするもので、難波に都があった大化2年当時のものとしてはふさわしくないこと、畿内に関する『日本書紀』の記事が天武朝以降に増加すること、畿内の中心となる京師の制、とくに条坊を備えた都城は大化当時には存在せず、天武朝以降に整備されてゆくと考えられることなどであるが、これらはいずれも論拠として十分ではなく、最近では改新の語にみえる畿内制を大化当時のものと認める説が有力となっている。問題とされた畿内の範囲も、特定の郡を中心として設定されたものではなく、大和朝廷を構成していた中央の諸氏族の居住範囲をそのまま畿内として指定したもので、畿内の範囲と都城の所在地とは無関係であったと考えられる。
【天武・持統朝の畿内制】大化の畿内は、その範囲を東西南北の4点によって表示するものであったが、天武天皇の時代に入ると、国を単位とする四畿内の制度に改められたようである。実際に〈四畿内〉の語が史料にあらわれるのは692年(持統6)以降であるが、『日本書紀』の675年(天武天皇4)条には、大倭(やまと)・河内・摂津・山背(やましろ)という国名の配列がみえ、これが律令制の畿内を構成する四国の配列と同じであることなどから、天武朝の初めにはすでに四畿内の制が成立していた可能性が強いといわれる。このころになると、畿内に対する政府の関心が高まり、畿外との区別が強く意識されるようになった。まず注目されるのは、中央の官人層を中心として、畿内地域の武装の強化がはかられていることである。たとえば676年(天武天皇5)に王卿を京畿内に遣わして、人ごとに武装の状況を調べ、685年(天武天皇14)にも諸王を京畿内に派遣して武器の調査をしている。これに対して畿外では逆に、部隊行動用の軍楽器や武器を収公するなど、武装解除が進められている。これは強力な中央集権国家の形成をめざす天武政権が、政府権力の強化を意図してとった政策であったと考えられる。また畿内は、このころ形成の途上にあった律令官僚機構に勤務する官人の居住地であったため、畿外と異なる特別の待遇が与えられたようである。たとえば676年に、畿外諸国の人が政府に仕えることを欲する場合、臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)などの子であればこれを許すという法令が出されているが、これは中央政府に勤務する官人は原則として畿内に居住する者から採用したことを前提として取られた特別措置であったと考えられる。また683年(天武12)に、文武の官人および畿内に居住する有位の人は、正月・4月・7月・10月の四孟月(しもうげつ)には必ず朝参せよと命じているのは、畿内居住者の特権的地位を示している。ただし天武・持統朝の畿内において、大宝令に規定されているような、一般農民に対する免税といった優遇措置がとられていたか否かは明らかでない。694年(持統8)本格的な条坊を備えた藤原京への遷都が行われたが、このことも大宝令制につながる畿内制の整備をうながすことになったと思われる。
【律令国家と畿内】大化改新を起点とする律令国家の建設は、701年(大宝1)の大宝律令の編纂・施行によってほぼ完成の域に達した。大宝令における畿内は、大倭・河内・摂津・山背の4か国をもって構成され、四畿内とよばれたが、のちに河内国から和泉国が分かれて五畿内となった。畿内は、東海道・山陽道などの七道とならぶ広域行政区画として、しばしば政府のまとまった施策の対象とされている。たとえば民政視察のため巡察使や問民苦使(もみくし)が七道に派遣される際には、畿内にも別に使者が派遣され、また凶荒対策なども畿内全域を対象として行われることが多かった。このように七道とならぶ行政区画をなしていた畿内は、天皇側近の地として税制上の優遇を受けていた。律令国家が農民に賦課した租税のうちで、もっとも主要なものは成人男子に課された調と庸(よう)であるが、畿内ではこのうち調の半額が免ぜられ、庸は全免されることになっていた。庸は歳役といって、年に10日間中央で行われる徭役にでる代わりに布などを納める制度であるが、庸が全免されたということは、歳役も免除されることを意味した。このように畿内に対して租税の免除が行われたのは、天子側近の民を優遇するという儒教的理念に基づくものであるが、さらに広く畿内制そのものが、律令制の成立以前に溯る中国の礼制に基づくことが指摘されている。すなわち中国においては、税制や軍事・監察などさまざまな面で王畿と畿外を分ける措置がとられているが、これらはすべて礼制に基づくものであり、わが国における畿内制の採用も、このような中国の伝統を踏襲したものであるというのである。なお制度面を離れて畿内の実態についてみると、そこにいくつかの特色を挙げることができる。まず第1に、畿内地域はわが国で最も生産力の高い先進地帯であり、政治・文化の中心をなす地域であった。それだけにまた畿内は人口過密地帯でもあり、京に居住する官人の口分田(くぶんでん)が畿内諸国で班給されたこともあって、農民の耕作する田地が不足しがちであった。そのため平安時代の初期には、令に規定する口分田の班給額を維持することが困難になっている。このように人口過密であったにもかかわらず、畿内への人口の流入が絶えなかったが、それはこの地域が租税免除の特典を与えられていただけでなく、官人の戸籍に入り込み、位階や官職を獲得する機会を提供したからでもある。畿内はまた階級分化の激しい地域でもあり、すでに8世紀の初めから多数の浮浪人をだす一方、貴族・官人・寺社・有力農民による私的土地所有が進められ、古代から中世への移行に際しても積極的な役割を果たすのである。
〔参考文献〕関晃「畿内制の成立」山梨大学学芸学部研究報告5、1954
曽我部静雄「日中の畿内制度」史林47-3、1964
長山泰孝「改新詔と畿内制の成立」続日本紀研究209・210、1980
西本昌弘「畿内制の基礎的考察」史学雑誌93-1、1984