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●亀甲墓 きっこうばか

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 俗にカーミナクーバカ(亀甲墓)と称され,外形が亀甲状になっている。形式には2通りあって,一つは丘を掘り込んで築造する様式と,ほかは丘を削りとって石を巻いて天井をつくり土砂をかぶせて造る様式がある。前者は伝統的な掘込墓の技術を踏襲し,後者は城門や石橋のアーチの技法を採り入れたものである。沖縄の亀甲墓は中国の福建省の墓式の影響を受けたもので,最も古いものは那覇市首里石嶺町にある伊江御殿家の墓(1687年築造)で,それより少し時代が下ったものに首里末吉町にある政治家羽地朝秀の墓がある。また,久米島上江洲家の先祖墓の一つである〈木のさく原墓〉も亀甲墓で,1701年か1705年のいずれかの年に築造されたものであるという。そのほかに,中城村久場のダイグスクにある護佐丸の墓や,首里石嶺町にある読谷山御殿家の墓などもかなり古い時代のものである。亀甲墓は破風墓よりも後代に現れており,墓堂の遺骸を置くシルヒラシドゥクマ(液乾し所)や,洗骨後の遺骨を安置するタナ(棚)など構造上も類似した点が多い。破風墓とともに首里王府時代は庶民の築造を禁じたので,一般に広く流行したのは明治中期から大正・昭和初期にかけてである。亀甲墓は俗に母体をかたどったものであるといい,人は死ぬと再びもとのところへ戻るという帰元思想のあらわれといわれている。その各部の名称にしても,人体の各部の名称を採用しているものが少なくない。しかし中国ではそういう思想はなく,亀甲墓は亀そのものを象徴したものである。亀甲墓の分布は南は波照間島・与那国島から北は伊平屋島まで広く分布している。与論島以北には亀甲墓は見られない。一方南限は台湾や福建系の華僑の住んでいるタイ・ヴェトナム方面まで延びている。

〔参考文献〕名嘉真宜勝他『沖縄奄美の葬送墓制』1979,明玄書房

川平朝申『沖縄の史蹟と文化』1976,球陽堂書房