●義太夫 ぎだゆう
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義太夫節。浄瑠璃の一流派。竹本義太夫(1651〜1714)を始祖とする。浄瑠璃といえば義太夫節をさすことが多い。人形芝居と結びついて大坂を本拠地として栄え,江戸時代中期以後の日本演劇界を歌舞伎と並んで二分した。現在は勢力が衰えているが活動を持続している。【沿革】1684年(貞享1)に竹本義太夫が大坂の道頓堀で竹本座を創立したときをもって義太夫節の発祥とする。義太夫は,井上播磨掾(はりまのじょう)と宇治嘉太夫(宇治加賀掾)の長所を採用して独自の語り口を創案した。1703年(元禄16)には義太夫門下の豊竹若太夫が豊竹座をおこし,両座がきそい合って全盛時代を迎えたが,1764〜72年(明和1〜9)のころから諸座が興廃を繰り返し,以来の植村文楽軒の芝居が文楽座として今日の国立文楽劇場に及んでいる。芝居としては江戸後期に衰退したが,浄瑠璃には幾多の名人が輩出し,語り口の研究がすすんで,各太夫の優れた芸風が今日に伝えられている。江戸末期から明治・大正にかけて女義太夫や素人浄瑠璃も全国的に繁栄した。
【脚本】初期のころは近松門左衛門の名作があったが,のちには合作者たちによってさまざまな工夫がなされた。5段組織を基準とし,合作期に入って長編化した。時代物と世話物の二つがあり,全体の統一テーマよりも各段ごとの半独立的な小テーマが眼目となることが多く,悲劇を中心としてドラマが展開するところに脚本の特色がみられる。
【曲節】義太夫自ら『義太夫段物集』の序文に〈われらが一流は,むかしの名入の浄るりを父母として,謡舞等はやしなひ親と定め侍る〉というように,義太夫節の曲節は先行の語り物を母胎としている。“情をふかく語りなす”という義太夫節は,多くの登場人物の性格や立場を語りわけ,御殿・館・屋舗・藁葺・昼・夜・晩(ゆうがた)・暁がた・深夜・人の応待・寛・急・喜・怒・哀・楽・気色まで深くねんごろに語ることを肝要とした。語りは地・色・節・詞が基本であるが,とくに地と節には多くの分類がなされている。その明確な整理は難しいが,旋律を直接示す呼称に播磨地・ウエテ・ハヅミ・三重・オクリなどがあり,ほかの音曲を導入したものに平家・謡・祭文・文弥・相の山・歌などがあり,また音の高低を示すものにハル・ウ・上(あげ・じょう)・中(なか・ちゅう)・下(さげ・げ)・ギンなどがある。それらが複合して地中(じなか・じちゅう)・地ハル・地ウ・地色・ハルフシ・ウフシ・ギンオクリなどの名称も生じた。義太夫全体のなかでとくに人物の悲哀な表出のときには美しい節づけが行われ,クドキとかサワリとか呼ばれる部分がある。主要人物が退場するときにはオクリ,場面転換には三重が使用されることが多い。全一曲の作曲法は,5段組織の各場の軽重の別(位)に従う。音楽性豊かな節事(ふしごと)・景事(けいごと)・道行の場には節を主としてほかのものはあまり用いないのがふつうである。義太夫には,ほかの音曲を取り入れるときには,十分に義太夫化して浄瑠璃を語るという格をはずさないようにせよという高いプライドがある。
【演奏】義太夫節は,太棹(ふとざお)の三味線をつける。調子は12律に従い,四つの間(本間)の拍子を主とする。節には細かな伴奏をつけ,地には比較的まばらな,詞には弾奏を休止する場合とあしらいを弾き添える場合とがある。掛合語りの撥(ばち)さばきには迫力がある。太夫は相三味線をきめ,両者は助け合って演奏を不即不離ですすめる。何人かの掛合や合奏をすることもある。義太夫節は人物や情景を1人の口で語りわけ,操(あやつり)人形に思想感情を与えねばならない。竹本座と豊竹座には芸風の違いがあり,竹本座を西風(にしふう),豊竹座を東風(ひがしふう)といったが,のちに両座の太夫の交流があり,太夫の語り口によって染太夫風・島太夫風などの風(ふう)が生じた。
〔参考文献〕石割松太郎『近世演劇雑考』1934,岡倉書房
芸能史研究会編『日本の古典芸能・第七巻・浄瑠璃』1970,平凡社
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