●北山文化 きたやまぶんか
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【北山文化の性格】足利義満が洛北につくった北山第(京都市北区金閣寺町)に営んだ邸宅を中心に,14世紀から15世紀初頭にかけて繁栄した時代文化の名称。室町後期の文化−東山文化に対比してこの名称が成立した。この時代の文化は,公家が文化的実力者であり,保持者であり,文化荷担者である。ことに足利義満が幕府を京都の室町において以来,守護大名たちに代表される武家たちが京都に集住し,将軍と在京守護大名と公家衆の接触のなかで,公武混淆の文化世界がつくられている。とくにその著しいものが禅宗とくに臨済宗を中心とする広汎な文化である。義満は五山・十刹・諸山の制を定め,禅宗保護を不立文字,「詩禅一致」のなかで実現をはかっている。北山第はもと西園寺公経が衣笠山麓に別邸をおこし,これを子孫に伝えたものだが,西園寺実永の代にいたり,義満が譲り受け,1397年(応永4),北山殿を営んだ。義満は北山第に惣社をたてたり,仙洞に擬したり,その政令は北山第から発せられている。こうして公家・公家僧侶輩がここに伺候してきたことから,北山文化というより,北山政治文化の中心といってよい。その中心は義満のつくった舎利殿(金閣三層)であるといい,これを象徴的建築と称賛している。この北山第の主人北山殿(義満)のもとに後小松天皇の行幸もあり,その権力の強さを『北山第行幸記』が伝えている。【禅と水墨画】京都五山は南禅寺を別格にして天龍寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺を中心として禅宗文化をつくりあげ,鎌倉地方にも禅宗寺院がつぎつぎと建立され,禅宗様が一つの形を示している。とくに詩偈が悟りの手助けとなり,春屋妙葩・義堂周信・絶海中津という詩文にすぐれた禅僧を輩出し,五山禅林文学を発展させ,儒仏道の三教一致の世界を強調している。一方唐物画が,多数禅僧によって輸入され,人々の関心を高めた。かれらは宗学の知識を受け入れた。それは治者の学問として,現実の政治体制に密着するものでもあった。また明の使節もここに伺候をくりかえしている。如拙・周文のごとき画僧も出現し,道釈画や山水花鳥画などの水墨画を発展させ,唐絵に似た似せ絵が多数需要されている。そのことは中国を中心とする伝統的国際秩序のもとで日本国王として中国皇帝に臣礼をとり従属国の支配を甘受していることを示す。その点で五山の禅僧たちは国家の公的役割・機能を私権から分離してとらえていくという意識には著しく乏しかったといえる。それはともかく水墨画は空間的に具象化した禅宗の自然観をあらわしたもので枯山水の庭園がつくられ,夢窓国師のような石立僧がすぐれた山水河原者を育てている。そのうえに西芳寺や天竜寺に残るような作庭技術のすぐれた人々を育てあげている。
【能と同朋衆・座の文化】唐物唐絵の関心は三阿弥(能阿弥・芸阿弥・相阿弥)に代表される唐物奉行の同朋衆が出納と目利き・表装をさせ座敷装飾の規定につながる世界をつくっている。禅宗の世界は清規と茶礼を基本とし,茶の湯・立花・禅院茶礼の世界を成立させている。武家文化としての故実的世界を成立させているのである。しかし,中世芸団は大和猿楽一つとってみても大和の守護興福寺を本所と仰ぎ,春日社神事・興福寺薪能をはじめ大和一国の楽頭職を漸次独占していく。そのうえで室町幕府との結合と京都という芸能市場を対象とする勧進興行を行っている。世阿弥は「幽玄無上」の境地を「貴人本位」へと切りかえている。それとともに衆人愛敬の芸能としても生きた。勧進興行は,社寺が勧進聖を仲介として芸能座を雇用して興行をしている。ところが応仁の乱は勧進興行に大きな変化をもたらした。そして何々社・何々寺勧進でなくなり,勧進の名目化が行われている。そしてその場も鴨川の河原で行われることが当り前となっていた。いずれにせよ,北山文化の中心は北山殿であり(義満の死後は鹿苑寺といわれ,金閣がその遺構),伝統的公家文化と新興武家文化を融合させた禅宗と能中心文化といってよい。そこにこの時代文化の特質をみいだすことができる。