●北アジア文化圏 きたアジアぶんかけん
AD
世界史教育でいう東アジア文化圏・西アジア文化圏などに対応する用語であるが,その地理的範囲については定説があるわけではない。しいていえば,東は満州,西はバルハシ湖付近,南は陰山山脈と天山山脈をつらねた線,に囲まれた地方ということになるであろう。したがって,このなかには当然,北方ユーラシアの亜湿潤地帯全域に共通する狩猟文化圏(メンギンのいわゆる骨骼文化圏)も含まれることになるが,世界史教育上における重要度からみて,このほうは対象外においてもまず問題はないであろう。とすると,これを除くそのほかの地方において,東アジアや西アジアの文化に対応するに足る共通の文化を問題にしなければならない。由来この地方には,中国の農耕社会に接して生活する半農半牧ないし牧主農副の民族と,その北方の乾燥地帯において純粋遊牧生活を営む,いわゆる騎馬遊牧民族とが住んでいた。しかし,これら両者のなかでも歴史的にとくに留意しなければならないのは後者である。したがって,これら騎馬遊牧民族がどのような生活環境のもとで独自の文化を創造したか,また,どのような過程をへて他地域の文化を受容したかが重要な問題になってくる。【遊牧国家の発展形態】そこで,まず考慮にいれなければならないのは,彼らの生活がすべて家畜に依存し,農耕社会に比べると,経済的に生産性がきわめて低いという点である。このため彼らは,家畜を資とする交易によって必要な物資を直接に入手する一方,内陸アジアの平坦な草原を騎行して中継貿易に従事したり,あるいは,各地域からやってくる商人に家畜を提供し,その護衛にあたるなど,キャラバン貿易にも直接・間接にかかわりをもって,生活内容を豊かにするようつとめた。また,ときとして中国など物博な農耕社会に侵入し,物資を掠奪するだけではなく,贈与などの名目で絹織物その他種々の贅沢品を入手し,あるいはまた,シルク=ロードに沿う軍事拠点を占領してここに代官を常置し,住民やキャラバンから税をとりたてた。この拠点としてとくに注目されるのは,モンゴリアとチベットをつなぐ河西地域,天山山脈の南と北を結ぶトルファンと,および,アム川とシル川に挟まれた肥沃な河間の地である。北アジア文化圏に包摂される諸民族の文化的共通項は,家畜に関連する文化一般と,交易や勢力拠点などを通じて受容した外来系文化ということになるであろう。
【合成文化の形成】北アジアと周辺諸地域との交渉は,すでに旧石器時代からうかがわれるが,新石器時代から金属器時代に入り,騎馬,とくに前3〜後3世紀ごろパルチアで発明された蹄鉄によって,旅行がスピードアップされてから,非常な発展をとげた。この結果,各地の珍しい文物がもたらされ,国都に留住する商人や旅行者の数もだんだんとふえてきた。そのことは,匈奴の都であったノイン=ウラやウイグルのカラ=バルガスン,あるいはモンゴルのカラコルムによってもうかがうことができるであろう。一例としてノイン=ウラについていうと,ここからは,中国産の品物はもちろん,ギリシアやアケメネス朝ペルシアの影響を受けて織成された毛織物も発見されている。また,突厥やウイグル時代には,胡人すなわちソグド系などの西域人が多く可ハンに仕え,国政を乱したことが記録されており,モンゴル時代には,周知のごとく,多数の西域人が政治の枢機に参画している。なおこのようなことは,国都だけではなく占領地域においても同様だったらしく,西突厥のごときは,ソグディアナ地域を統治するあいだにだんだんとペルシア化し,あげく,仏教からゾロアスター教へと改宗している。このように,北アジアの遊牧国家には,漢人(捕虜・亡命・商人など)はもちろん,西域人など西方の人々によってたえず異質の文物がもたらされ,経済的・文化的にその開発が促進されたことが知られる。だが,その受容態度は,固有の文物が貧弱なこともあって,けっして選択的とはいえず,顕著な実害が伴わない限り,きわめて寛容であったといってよい。宗教についてみても,太古以来のシャーマニズムをべースにしながら,儒教・仏教・ネストリウス派キリスト教・マニ教・イスラーム教・ラマ教という風に,ごく安易に受容している。この風は他の文物についてもほとんど同様にうかがうことができる。この意味で,遊牧国家の文化は一種の合成文化といってよいであろう。だが,それだからといって民族としての主体性が欠如していたわけではない。その一例として,突厥では,7,8世紀のころソグド文字を改良して突厥文字をつくっている。このころ唐朝に激しく敵対していた突厥は,従来の消極的な合成文化受容に満足できず,遊牧にもとづく自己の主体性を積極的に顕示するとともに,民衆の自覚を誘発する方途として,文字を新しくつくり出したのであろう。しかもこの風は,その後ウイグル・モンゴルヘと次々に受け継がれている。
〔参考文献〕伊瀬仙太郎『世界文化交流史』1963,金星堂