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●貴族院 きぞくいん

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 大日本帝国憲法(明治憲法)のもとで,衆議院とともに帝国議会の一院を構成した立法機関。二院制の議会制度をとる世界の国々のなかには,イギリスにみられるように国民中から公選された議員からなる下院(衆議院)とともに,貴族をはじめ特権階級の代表を中心とした上院(貴族院)が存在する場合が多い。

【貴族院の権限と構成】日本においては,1889年(明治22)2月11日に発布された大日本帝国憲法によって,帝国議会は貴族院・衆議院の両院をもって成立するものとされ,天皇に協賛して立法および予算審議・議定のことなどにあたった。憲法と議院法では衆議院に予算先議権が認められていたが,そのほかでは貴族院はまったく衆議院と同等の権限をもった。憲法と同時に公布された貴族院令によれば,貴族院議員は,[1]成年男子の皇族,[2]満25歳以上の公侯爵,[3]満25歳以上の伯子男爵中の互選(任期7年),[4]満30歳以上の国家に勲功・学識ある男子中からの勅任(いわゆる勅選議員,終身),[5]各府県の満30歳以上の多額納税者中の互選(各1人,任期7年)からなるものであった。議長・副議長は,議員中から勅任された(任期7年)。また,貴族院は天皇の諮問にこたえ,華族の特権に関する条規,議員の資格・選挙に関する訴訟について議決する権限をもった。

【貴族院の政治的動向】第1回帝国議会は1890年11月25日召集され,同年11月29日貴族院本会議場において開院式が行われ,貴族院は正式に開設された。上記のような議員の構成からも明らかなように,貴族院は特権階級の牙城であり,初期議会においては,衆議院が政党勢力の拠点として「藩閥」政府と対立したのに対抗して,政府擁護に回った。しかし,日清戦争後,第2次伊藤内閣が衆議院の第一党である自由党と公然と手を握ったり,また第2次松方内閣が進歩党と連立内閣を形成したりするなど,政府と政党の提携が深まると,貴族院は,しだいに政府と対立するようになった。とくに,1900年立憲政友会を基礎に第4次伊藤内閣が成立すると,貴族院は山県有朋系の勅選議員を中心にこれと対抗し,翌年には政府提出の増税案への反対や予算案の削減など,政府に敵対する勢力の一大拠点となった。貴族院には開設直後から懇親クラブ的な院内諸会派がつくられていたが,それらはしだいに結束して政治的行動をとるようになった。明治時代の末から大正時代にかけて,子爵議員などの有爵議員を中心とした研究会が最有力会派に発展し,衆議院の第一党たる立憲政友会と接近した。1918年(大正7),政友会原内閣が成立すると,政府の積極的な働きかけに応じて政府支持の姿勢を示し,1920年には閣僚を送り込むなど政治的影響力を強めた。

【貴族院改革問題】1924年,研究会をはじめとする貴族院の勢力を基礎に組織された清浦内閣は,「時代錯誤の特権階級内閣」として世論の非難を浴びた。憲政会政友会革新倶楽部護憲三派は,清浦内閣の打倒と政党内閣の樹立をめざして,第2次憲政擁護運動を推進し,総選挙に勝利をおさめ,同年6月,憲政会総裁の加藤高明を首相とする三派連立内閣を組織した。貴族院改革は,すでに第4次伊藤内閣時代から課題とされていたが,1905,09,18年の3回にわたり貴族院令が改正され,有爵互選議員定数の上限の設定や各有爵議員間の定数配分の不均衡是正,北海道や沖縄県からの多額納税議員の選出などが定められた。その後,清浦内閣成立のころから,貴族院の政治的勢力拡大が,デモクラシーの風潮の逆行するものとして,公侯爵議員の世襲制廃止,勅選議員の終身制廃止,有爵互選議員の削減など貴族院の根本的改革が強く叫ばれるようになった。しかし,貴族院側の抵抗が強く,1925年加藤高明内閣のもとで実現した貴族院令の改正では,[1]有爵互選議員定数の若干の削減と年齢資格の満30歳以上への引き上げ,[2]多額納税議員の若干の増加,[3]学士院会員選出議員の新設など,きわめて不徹底な改革にとどまり,政府側の意図した公選議員の設置などの案は具体化されなかった。とはいえ,これ以後,政党内閣時代がつづき,貴族院の政治的影響力は後退した。1930年代に入り,貴族院改革問題は再三論議され,改革案もつくられたが,実行されるにはいたらなかった。

【貴族院の廃止】第二次世界大戦の敗戦後,相ついで国内の民主化が実施され,公職追放令によって420人中40%以上の貴族院議員が辞職に追い込まれて,貴族院の政治的役割は大幅に低下した。1947年(昭和22)3月31日,大日本帝国憲法のもとでの最後の帝国議会(第92議会)が閉会となり,ついで,同年5月3日,日本国憲法の施行とともに貴族院は廃止された。

〔参考文献〕衆議院・参議院編『議会制度七十年史』1962,衆議院・参議院

尚友倶楽部編『貴族院の会派研究会史』1971,尚友倶楽部