●貴族(日本) きぞく
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日本の貴族は,まず天皇家を取りまく公家(くげ)貴族として形成された。その成立には以下の三つの制度的契機が考えられる。[1]は律令官僚制である。7世紀中ごろから8世紀にかけて成立したわが国の律令制度では,三位以上を〈貴〉,四位・五位を〈通貴〉といい,上級官職を独占し,経済上,法制上各種の優遇を受けた。しかも元来位階は個人を対象として授与されるものであるにもかかわらず,父や祖父の位階に応じて叙位される蔭位(おんい)の制があり,これが貴・通貴を再生産する契機となって,貴・通貴を世襲的身分と化する役割を果たし,上級官僚の貴族化に道を開いた。
[2]は公卿(くぎょう)制の成立である。律令制太政官の最高幹部を構成する公卿は,内大臣・中納言・参議などの令外官の新設や摂政・関白の常置に伴い,平安前期には参議以上および三位以上をその範囲とすることがほぼ定着した。そして平安中期以降,藤原摂関政治の展開や家職世襲の風潮のもとで,公卿の地位が限られた氏族・家系に固定する傾向を強め,官位昇進のコースによって家柄,家格もしだいに形成され,公卿と公家はほとんど同義語となって,明治の公家華族にまで引き継がれた。
[3]は昇殿制の成立である。昇殿とは内裏(だいり)の清涼殿殿上の間に昇ることを許されることで,それを許されないのを地下(じげ)といい,天皇との親疎を表示する呼称である。昇殿の制は平安時代中ごろに成立するが,平安中・末期になると,有位者の増大などによって位階の政治的・社会的評価も相対的に低下し,昇殿の制が新しい身分制として重んじられるようになった。公卿は昇殿を許されるのを原則としたが,四位・五位の廷臣のうち,昇殿を許されたものを殿上人(てんじょうびと)とか雲客・堂上(とうしょう)といい,地下官人との較差を拡げる一方,公卿見習のような地位となり,近世では公卿も含めて堂上家とよばれ,公家貴族の総称となった。
以上の制度的契機とは別に,外戚氏族と賜姓皇親が,“貴種”尊重の風潮と互いに影響しあいながら,廷臣の貴族化を促した。律令官僚制の発足当初は,かつて大和朝廷を支えた畿内豪族が,相互のバランスをとって上級官職を分けあったが,やがて藤原氏が幾多の政争を乗り越えて朝廷の多数派をきずきあげ,さらに皇室との外戚関係を強化して政権の確保をはかった。血統の高貴は古来貴族の重要な要素であり,最高の血筋を伝える皇室と姻戚関係を結ぶことは,自家の血統を高める近道である。また814年(弘仁5)嵯峨天皇が皇子女8人に源姓を賜わって臣籍に下すにおよび,醍醐天皇の皇子女に至るまで賜姓源氏は100人前後を数え,一世源氏とよばれて種々の優遇を受け,多くの公卿を輩出し,さらに村上天皇の皇孫を始祖とする村上源氏も朝廷に進出し,宇多・醍醐源氏とともに長く公卿の地位を世襲した。その間,藤原摂関家が進んで賜姓源氏との婚姻をはかったのも,貴種指向の現れである。初めて武力をもって政権を奪取した平氏も,皇親の末裔(まつえい)を誇りとし,女子を後宮に入れて外戚貴族の道を目指したが,鎌倉に武家政権を樹立した東国武士も,その貴種性のゆえをもって一介の流人源頼朝を首領にいただいたのである。公家化・貴族化の傾向を強めた源氏将軍家は3代で滅び,その後東国武士を統率した北条氏は,頑強に公家化を拒んだが,京都に幕府を開いた足利氏は,公家勢力をも抱えこんで公武一統の政治・文化の樹立を目指し,将軍職を世襲して新しい型の貴族化の道を歩んだ。ついで戦国乱世のなかで,名族・雄族は多く没落し,新興の武将が国内統一に成功したが,やがて徳川家が江戸に幕府を開くや,公家と武家の間を画然と分け,さらにそれぞれの身分・家格を固定化したので,将軍・諸大名以下,上級武家は新しく武家貴族を形成した。ただ日本では新興の貴族が旧貴族を抹殺するという現象は見られず,1869年(明治2),新たに公定された“華族”の称は,公家・武家両貴族に与えられた族称である。ついで1884年,華族令が制定され,旧堂上公家と旧将軍家・諸大名は家格に応じて公・侯・伯・子・男の五爵の爵位を授与され,各種の特権を与えられた。さらに1889年,帝国憲法および貴族院令が制定されるに及び,華族は貴族院の主要な構成要素となり,その政治的特権を確立した。しかし第二次大戦終結後の1947年(昭和22),日本国憲法の施行とともに華族制度は廃止され,日本における貴族は制度上消滅した。
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