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●徽宗(宋) きそう

アジア 中華人民共和国 AD1082 北宋

 1082〜1135(元豊5〜紹興5)中国,北宋第8代皇帝(在位1100〜25)姓名は趙佶(ちょうきつ)。諡は体神合道駿烈遜功聖文仁徳憲慈顕孝皇帝。第6代神宗の第11子。母は欽慈皇后陳氏。兄の第7代哲宗が病没,子がないため,1100年(元符3)神宗の皇后向氏(しょうし)(向大后)の強力な支持で即位。向太后摂政のあいだは,新法・旧法を折衷した政治が行われた。1101年(建中靖国1)向太后が没して親政すると,父の神宗時代に行われた新法を採用し,新法派の蔡京(さいけい)・童貫(どうかん)らを重用。徽宗は政治に熱心でなく,蔡京ら重臣に任せたままで,道教を信じて国費を乱費し,芸術活動に熱中した。花石綱(江南から珍木奇石を都へ送らせるもの),重税の加徴,専売収入の増加などにより,民衆生活が圧迫され,1120年(宣和2)浙江で宋代最大の農民反乱である方蝋(ほうろう)の乱がおこった。一方東北部では,女真族が遼の支配から独立して金国をたてた。この金の勢力を利用して故地(燕雲十六州)の回復を企て,1123年金から幽州など6州だけを割与された。こののち宋と金の関係は悪化し,金軍が南侵してくると,1125年12月,皇太子(欽宗)に位を譲った。翌年鎮江(江蘇省)に逃れて難を避けたが,そののち金軍によって都の開封が落とされ,1127年(靖康2),彼は欽宗そのほかの皇族とともに捕虜として北方に送られ(靖康の変),1135年(紹興5),五国城(黒竜江省依蘭県)で悲惨な配流生活のうちに没した。徽宗は文化人として優れ,詩文もよくしたが,とくに書画に巧みであった。書は痩金体(そうきんたい)あるいは痩金書といわれ,画は院体画を描いた。『桃鳩図』は彼の絵画の代表作品。1104年(崇寧3)書画院を設け,多くの作家を養成した。とくに画院は空前の盛況を呈し,宣和(せんな)時代と呼ばれる盛世を現出。勅撰の『宣和書譜』,『宣和画譜』,『重修宣和博古図』は,芸術鑑賞の学問の集大成として注目すべきものである。また農民反乱をひきおこした花石綱により集めた資材で築かれた開封の万寿山(艮嶽=こんがく)は,庭園史上も重要である。

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