●寄生地主制 きせいじぬしせい
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農業生産者には自作農と小作農があり、簡単にいえば自らの農地を所有するのが前者、他人の所有地を借りて耕作し、一定の地代を収めるのが後者である。自作農のうち、所有地が大きくて余裕があったり、家族労働力が少ない場合、小作農に農地を貸し付け、代わりに地代を受け取るのを地主という。地主には農地のある村落に居住して、自らも働きつつ小作からの地代をも受け取る在地地主と、大都市で暮らしながら地方の所有農地から上がる地代のみをただ収奪する不在地主の二者がある。後者の場合、まぎれもなく小作農の労働に寄生する地主であるが、前者が寄生地主でないとはいえない。〈地主の数からいえばこのような村内地主、耕作地主の比重が最も高いのであるが、地主の経済的機能、それをもととする地主の政治的動向には、そのような耕作地主としての意味は少なくなっていた〉〈そのような地帯で農民的加工業の問屋、高利貸などを通じて大面積の土地所有を実現した場合に、最も強く地主の寄生的性格があらわれるのである〉と、寄生地主制の研究家である古島敏雄教授は述べている(『近世日本農業の構造』)。結局、地主が農地のある村落に居住するか不在であるかは“寄生”の決め手とはならない。確かに小さな農地を額に汗して耕しながら、家族労働力の弱体により一部を小作に出している小自作農までも寄生地主と呼ぶのは不当である。だが大規模地主の大半を占める在地地主は、すでに農業現場での耕作者の性格は稀薄であり、不在地主同様の純然たる小作料の徴収者、またその小作料である米の大規模な販売者に転じている。このようなものが寄生地主である。昭和初期日本では600万石の米が生産されたが、そのなかから58%が販売され、そのうち15%は、農業に従事しない土地所有者の手によって売られている。1戸当たりの規模も自作農地主の3倍に達している。近代日本の寄生地主制の実体を要約すれば、家事労働などへのサービスを含む封建的な身分関係を小農・小作人とのあいだに保ちながら、概ね50町歩以上の大農耕地を所有し、仮に自作地の農業をも多少は行う場合でも、主として小作地から上がる小作料としての米を販売業者として取り扱うところに活動の主体を置く、ということになろうか。ちなみに小作料は田の場合現物納であって、それに米の40%〜50%が地主に収められ、地主はそれをどれだけ高く売りさばくかに腐心したのである。寄生地主制はすでに江戸時代に始まっている。本来江戸時代の幕藩制度は、耕作と年貢が背中合わせである。地代が発生する余地がなく、すべての余剰農産物は領主に収められるべきものである。しかし、地域と時代によりこの原則にはさまざまな例外が派生した。まず後進地において旧土豪が大きな権力を残したところでは、譜代の下人(げにん)・所従(しょじゅう)とのあいだに農奴的な絶対支配が残され、旧土豪=大百姓が農奴労働力を使いながら領主に対して年貢を請け合った。また先進地畿内や関東でも街道筋では農業が商品生産化し、質入れなどを通して高利貸しのもとに農地が集まっていった。さらに特筆されるべきは川原・砂丘・荒蕪地(こうぶち)の大規模開発による大農地所有と小作労働の発生で、これは多く大商人の手によってなされた。かくて幕末にかけて幕藩体制の原理と矛盾するはずの寄生地主制が形成されていったのである。明治政府による1873年(明治6)の地租改正は、その重い負担と金納制によって中農層に壊滅的な打撃を与え、寄生地主制をさらに大きく推し進めることとなった。かくして1910年(明治43)ごろから、すべての農耕地の45%までもが地主の手に帰したのである。3,000人からの50町歩以上の所有者(なかには1,000町歩以上も多くある)によって農業が支配され、第二次世界大戦後の農地解放(第1次1945年、第2次1946年)までこの状況がつづくこととなった。