●魏晋南北朝時代 ぎしんなんぼくちょうじだい
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秦漢時代につづき、中国が再び隋唐王朝によって再統一されるまでの約360余年間を魏晋南北朝時代または六朝時代という。この時代は政治的には数カ国あるいは南北に分立抗争した分裂の時代であったが、胡漢両民族の混淆や異質文化の流入により歴史的活力が高まり、伝統文化が再生発展した意義は大であった。また漢族の南遷によって江南の開発が進み、漢人の活躍の舞台が拡大されたことも重要である。
【概観】後漢末の動乱のうちに、州牧などの地方長官が各地に分立割拠したが、それらの群雄の中から台頭した曹操は天子を擁して華北を統一し、その子の曹丕は後漢の献帝の譲りを受けて魏国を建てた(220)。江東の孫権と連合して赤壁で魏の南下を防いだ(208)劉備は、荊州を基盤として四川地方を得て成都で即位した(221)。一方孫権は揚子江中下流地域を支配して黄武と改元し(223)、ついで皇帝を称した(229)。三国のうち、華北を支配した魏が最も富強を誇り、蜀は四川の開発につとめてよく魏と戦ったが、丞相諸葛亮の死後魏に併呑された(263)。魏も間もなく司馬懿の孫の司馬炎に帝位を奪われた(265)。これが西晋の武帝である。呉は山越討伐を行って江南経略を進め、広東・福建地方まで版図を拡大したが、孫権の死後内紛がおこり、西晋に滅ぼされた(280)。
西晋は諸王を封建し帝室の守りとしたが、やがて八王の乱をひきおこし、五胡の侵入を招いて滅亡した(316)。ときに建康に鎮していた司馬睿は西晋の遺臣や江南豪族に推戴されて東晋王朝を開いた。北来の名族と江南大姓の合作により多彩な貴族文化を開花させた東晋は、南進した前秦の符堅の大軍をヒスイ※注1※に破って一時気勢をあげたが、貴族の政争がつづき、武人の劉裕に国を奪われた(420)。
華北では、匈奴・羯・鮮卑・テイ※注2※・羌のいわゆる五胡の国が興亡し、一時前秦が華北を統一、ついで鮮卑族の拓跋部の代国が台頭して国号を魏と改め、第3代太武帝のとき華北を統一した(439)。ここに宋と北魏の両王朝対峙の南北朝時代が始まった。
南朝では貴族制がいっそう発展したが貴族は政治の実務から遠ざかり、天子の専制権力が強大となった。貴族得意の元嘉時代を過ぎると宋は北魏の圧迫をうけて衰退に向かい、かわって蕭道成が斉国をおこした。斉の天子は徹底した宗室の殺戮をくりかえしてわずか24年で滅び、蕭衍に国を譲った(502)。蕭衍すなわち梁の武帝の治世は48年にわたり、南朝の最盛期を現出した。梁を崩壊させた侯景の反乱は東晋以来の貴族にも大打撃を与え、侯景を倒した陳覇先が建てた陳王朝は国土が狭少で国勢はふるわなかった。
北魏は建国以来、漢制をとり入れ、第六代孝文帝は均田制・三長制を実施していっそう漢化政策を徹底させた。しかしその反動として魏末には六鎮の乱がおこり、懐朔鎮出身の高観と武川鎮出身の宇文泰によって東西両魏に二分された。高氏・宇文氏はやがて譲りを受けて、北斉・北周をおこしたが、北斉は北周に征服され(577)、北周も外戚の楊堅に国を奪われた。かくして楊堅すなわち隋の文帝によって後梁および南朝の陳が征服され、中国の再統一が達成されたのである(589)。
【諸制度】この時代の諸国の中央官制は漢代の三公にかわって尚書・中書・門下の三省が有力となった。はじめは尚書令が事実上の丞相であったが、のち天子の諮門役の中書令や勅令の起草に当たった門下省がこれをしのぐようになり、尚書は行政官庁となった。尚書省内には吏部・度支・左民・都官・五兵の六部が設けられ、人事その他を分掌した。地方官制は、郡県の上におかれた州刺史が常設の民政官となり、さらに都督を兼ねて、州官(行政)と府官(軍事)を属僚とし、地方長官に本籍地出身者が任命された点がこの時代の特徴である。官吏登用法としては、魏がはじめた九品官人法が諸国でも行われた。司徒が任命した郡国の中正官が郷品を定め、これにもとづいて起家の官が決定されたが、西晋の州大中正制の施行以降、郷品が人物より家格を基準とされるようになり、門閥貴族化を助長した。
法制の面では、律・令という法典形式が生まれ、隋唐の律令格式の前身となった。魏の新律・晋の泰始律令をはじめ、多くの法典がくりかえし編さんされたが、北斉の河清律令はとくに内容が洗練されたものといわれる。兵制としては、三国時代から宋初まで兵戸制度が行われた。後漢末の動乱の時期に、流民などが召募されて将軍の部曲になったことによる。国軍に編入された部曲は永代兵役義務をもつ兵戸とされ、戸籍も一般民とは区別されていた。一般民も軍隊に徴発されたこともあるが、それは臨時措置で、常備軍の主力は兵戸出身の兵士であった。南朝では宋以後一般民が兵役義務を負ったが、土豪の率いる半官半民的軍隊が横行した。北朝では、征服者である胡族系庶民が永代の兵役義務を課されていたが、孝文帝の漢化政策以後、北族兵士の地位が悪化した。西魏の宇文泰は漢人社会を基礎として兵農一致の国軍を創設し、隋唐の府兵制の起源となった。
土地制度では、三国時代の特徴を示す田制に屯田制がある。軍糧確保のために魏の曹操が許(河南)に大規模な屯田を開いたのに始まり(196)、呉・蜀もこれにならった。漢代以来みられる軍屯もおかれたが、この民屯の特色は、屯田耕作者である客が典農部の田官の支配をうけ、一般の郡県民とは区別されていたことである。田官は晋代に郡県官に改められた。呉が平定された280年(太康1)、戸調式が発布され、官品に応じた占田額や庶民の占田額・課田額が規定された。占田・課田制の解釈については諸説があるが、課田は屯田の系譜をひき、占田は限田とする説が有力である。しかし実際には、豪家による大土地所有が発達していた。華北では、北魏初めに計口受田が行われ、孝文帝代には有名な均田法が発布されて(485)全国的な国有地の給退制がとられ、隋・唐の均田制の嚆矢となった。税制も大きな変化があった。漢の定率田租・銭納人頭税にかわって、魏は畝ごとに粟4升、戸ごとに絹2匹、綿2斤を課した。この定額田租と戸調という方式は晋の戸調式に継承された。『隋書』「食貨志」には東晋・南朝の制として、戸調が丁対象の調になったとしている。華北でも後趙の石勒が戸調を定め、北魏に及んでいるが、均田法施行以後、夫婦単位の租調へと変化し、隋唐代の丁対象の租庸調制への過渡的位置をしめている。徭役は明確な規定を欠くが、逃役のため豪家の佃客となる者が多かった点、苛酷な役が課されたと考えられる。貨幣は漢の五銖銭を標準として、呉の大泉五百のように大銭政策がとられたが、粗悪で流通量が乏しく、布帛・穀物を交易に使用することが少なくなかった。
【社会・経済】この時代には、後漢末の動乱や五胡の侵入のため、華北農村が荒廃し、多数の漢族が相ついで江南に移動した。こうした農村の荒廃・移動によって流亡農民の隷民化が進み、私兵を擁する豪強富室はますますその勢力を伸長させた。魏晋時代の塢主や漢族の南遷に際して活躍した行主などはいずれも豪族かそれらの自衛集団の指導者となったものである。漢代の聚落組織である里がくずれ、村という新しい聚落の名称もこの時代に初めて現れてきた。漢代の郷里社会が急速に分解し、豪族勢力を中心として再編され、豪族は実質的な社会の支配者となってきた。六朝の九品中正制で、中正官が推挙する士人は各地の豪族にほかならず、有力な豪族は代々政権の要職について貴族となった。西晋の官品を基準とする土地・客の制限も、むしろ課役免除枠の合法化とみられよう。また東晋・南朝で、南遷漢人のために設けた僑郡・僑県と課役免除の優遇も、移住集団の指導者である豪族のためであったと考えられる。豪族勢力を背景とした貴族制社会の成長の結果、士人間に貴族と寒門との身分序列が厳格となっただけでなく、士人と庶民との区別もいっそうはなはだしくなって、身分制的貴賤秩序が社会的規範とされるようになった。この傾向は華北でも同様である。
分裂抗争の時代を反映して、経済が衰退したことは否定しえないが、農業技術の分野では、『斉民要術』にみるような華北の早地農法の発達があり、「火耕水耨」と呼ばれる江南の稲作も、陂や塘を使用する灌漑農業が普及し、水田面積の増加による農業生産力の向上がみられた。
【文化】漢代の儒学はこの時代も官僚の基礎的教養であったが、儒学の解釈に老荘思想をとり入れた玄学が新しい傾向となった。正始の風を代表する何晏・王弼がとくに有名である。さらに世俗を超越して礼法を無視した竹林の七賢と総称される人物も現れた。彼らは清談家と呼ばれるが、清談が貴族社会にもてはやされていたことは、魏晋の名士の逸話を収録した劉義慶の『世説新語』に如実に示されている。文学の分野では、新しい形式の五言詩が生まれ、格調の高い文学が開かれた。曹操父子や「建安七子」と呼ばれる文人がその先駆である。阮籍の「詠懐詩」、稽康の「幽憤詩」は不安な政情を反映して思想的に深化しているが、東晋代には陶淵明や謝霊運のような自然美を探求する山水文学がおこった。梁代は南朝文学の最盛期で、四六駢儷体が完成し、リュウキョウ※注3※の『文心雕龍』などの評論や昭明太子の『文選』、徐陵の『玉台新詠』などの修辞文学の名品集が出された。北朝では顔之推の『顔氏家訓』、宗懍の『荊楚歳時記』などのすぐれた散文を残している。千宝の『捜神記』のような怪異小説の流行も注目される傾向である。
宗教面では、仏教・道教が盛行した。三国・西晋仏教は康僧会・竺法護らの胡僧の伝道時代で、五胡の諸国での霊験仏教の普及をうけて、本格的な仏教受容が始まった。仏図澄の弟子道安や鳩摩羅什らは格義仏教を脱した仏教教理の研究に大きく貢献した。東晋では盧山の慧遠は戒律厳格な白蓮社の教団をつくり、桓玄に対して「沙門不敬王者論」を示し、国権に対する教団の独立性を主張した。華北には国家仏教が興隆したが、北魏の太武帝・北周の武帝の廃仏によって大きな反省を迫られ、南朝では梁の武帝代に貴族仏教の極盛をみた。南北朝時代の教理研究のなかからおこった学派は隋唐時代の大乗仏教諸宗派の土台となっている。道教は、後漢末漢中で創始された五斗米道すなわち天師道が晋代に江浙・山東方面に伝播した。4・5世紀の交におきた孫恩の教徒はその一派である。華北では寇謙之が天師道を改革して新天師道を唱え、太武帝に信奉され国家道教へと進んだ。これらの天師道教に対して、方士系の神仏道教が、葛玄・葛洪によって体系化された。葛洪の『抱朴子』には当時の医学・薬学・天文学・練金術の深い知識がみられ、それが知識人社会のものであったことを示している。二葛の道教は梁の陶弘景に受け継がれ、茅山派道教となった。
【美術】六朝の美術としては第1に雲崗・龍門・敦煌の石窟があげられる。それらの仏像彫刻からは、ガンダーラ風・鮮卑風・中国風の様式の変化が看取され、北朝芸術の精華といえよう。北魏洛陽の仏塔については楊衒之の『洛陽伽藍記』に詳細な記述がある。江南の仏像は新中国になってから数多くの事例が報告されているが、南京付近に残る陵墓の石獣・石柱類にもすぐれた彫刻がみられる。絵画の分野では多数の文人画家が輩出したが、とくに晋のコガイシ※注4※・宋の陸探微・梁のチョウソウヨウ※注5※は六朝3大家として名高い。これらの名人の事跡は唐の張彦遠の『歴代名画記』に詳しい。書も貴族社会の代表的文化であり、この時代、楷行草の書体が完成し、芸術性の高い作品が生まれた。晋の王羲之とその子王献之は二王と呼ばれ、長く書の典型とされて敬愛された。
〔参考文献〕岡崎文夫『魏晋南北朝通史』1932、弘文堂
武仙卿、宇都宮清吉・増村宏訳『魏晋南北朝経済史』1942、生活社
宮川尚志『六朝史研究 政治社会篇』1956、日本学術振興会/『同宗教篇』1964、平楽寺書店
谷川道雄『隋唐帝国形成史論』1971、筑摩書房
越智重明『魏晋南朝の貴族制』1982、研文出版社
川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』1982、岩波書店
