●技術革新 ぎじゅつかくしん
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技術革新とは,一般にはシュムペーター経済学の基本概念の一つである,イノベーションの訳語とされている。コンドラティエフは,1926年に物価や利子率・生産量などを手掛かりとして,平均54年から60年を周期とする,景気循環の長期波動を見出した。第1の波は,1780年代の末から1850年代の初めまで,第2の波は,1850年代の初めから1890年代まで,第3の波は,1890年代から1920年代ごろまでとされている。シュムペーターは,この長期波動の原因を,イノベーションによって説明しようとした。そのイノベーション概念の内容について,“Business Cycles”第1巻には,こう書かれている。〈新しい商品の導入がまず含まれる。これはその標準的な事例としてもよいであろう。次に,既存の商品の生産における技術的な変化,新しい市場あるいは供給源の開拓,作業のテイラー化,材料の処理の改善,百貨店にみるような新しい経営組織の定立,つまり経済生活の領域で従来とは違ったやりかたをすること,以上はすべてイノベーションという用語によって示される諸例である〉。技術革新という用語が便われる場合,だいたいにおいて,ほぼシュムペーターにならっているようにみえる。なんらかの経済条件を得て,新しい技術変化が多くの技術分野で連鎖的におこり,それによって経営組織や産業構造か産業立地に大きな変動が生じ,それらを通じて経済成長が推進されるようなとき,人々はその現象を技術革新と呼んでいるといってよいであろう。
【第1の技術体系の成立】コンドラティエフ循環の第1の波は,いわゆる産業革命の時期にあたっている。この時期の技術革新の中心的な商品は木綿である。それはすべての人の肌着の素材として,ほかのどの繊維よりも好適であり,紡績機の発明によって大量生産と低価格が実現し,その市場がいっきょに拡大された。紡績機は初めは手動だったが,水力,さらには蒸気動力によって運転されるようになって,機械制木綿工業は本格的に成長しはじめた。蒸気機関の製作には,工作機械の新たな発展が必要だった。送り台つき旋盤・中ぐり盤・スライス盤・平削盤・形削盤などが相次いで開発され,蒸気機関で運転された。これらの機械の機構部分には,割れにくく加工しやすい鉄材が必要だったが,同時期に発明されたパッドル炉が,錬鉄を供給して,それに答えた。また切削工具用の鋼鉄についても,ルツボ製鋼法の発明が要求を満たした。他方,綿糸は動力織機によって綿布に織られたが,綿布の洗濯のためには,石けん用の原料が多量に生産されなければならなかった。19世紀に入って,ルブラン法による炭酸ソーダが,その要求に応え,その副産物である塩素が,漂白粉の生産を可能にし,化学漂白が,それまでの天然漂白に取って代わった。木綿はたちまちのうちに,イギリスの国内市場を席捲したのみならず1830年ごろには,イギリス輸出額のほぼ半分を占めるようになった。原料の棉花はアメリカから送られてきた。棉花はリバプール港に到着し,そこからマンチェスターに陸上輸送されたが,運河や馬車によっては,増大する輸送量を確保できなくなった。かくて,1830年代に,この区間に鉄道が走ることになった。棉花と綿糸・綿布はこの鉄道を往復したのである。
鉄道の安全を確保するためには,有線電信を不可欠とする。いくつかの複雑な電信技術が試みられたのち,モールス式電信が定着した。鉄道はまた,路盤・トンネル・橋梁・停車場・操車場などにかかわる建設技術を強力に推進し,木綿工業とともに,産業革命後期の中心的な産業となった。1850年ごろ,いずれも50万人を超える雇用を吸収していたといわれている。そのころ,イギリスの鉄道の総延長は,すでに約8,000kmに達していたのである。1851年に,イギリスでは第1回万国博覧会が開かれ,その技術力と経済力を世界に誇示されたが,当時はまた,全技術部門にわたって,新しい技術が連鎖的に出現したのち,相互に生産力や生産性の均衡を,ほぼ実現した時期であった。技術史の側からいえば,これは,機械文明始まって以来の,第1の技術体系の成立期と考えられる。それは,1767年のハーグリーヴズの紡績機の発明に始まって,1838年のモールスの有線電信の発明に終わるといってよい。そして,ここで注目されるのは,この産業革命以前に,すでに材料の分野では,コークス製鉄法が登場し,動力の分野では大気圧原動機が現れていたにもかかわらず,それらは産業革命の起点にはならなかったことである。大気圧原動機は鉱山や炭鉱の排水ポンプの動力として要求され,コークス製鉄法は,その材料や家庭用器具・紡毛マニュファクチュア用の針金などの材料として必要であった。当時の段階では,石炭や銑鉄はいまだ技術革新を強力に推進するほどの中心的な商品ではなかった。機械文明が花開くためには,まず当時最も普遍的に熾烈に要求される商品が,国民の大多数に買えるほどの低価格で,実現しなければならなかったのであり,それが木綿であった。そして,蒸気機関も,紡績機や工作機械と結合したことによって,はじめて,その本来の威力を発揮したのである。ワットの蒸気機関は,初めは排水ポンプ用として発明されたので,往復運動しかできなかった。しかし1784年に回転運動が可能な機関がつくられて,蒸気動力時代は本格化し,また紡績機の生産性が飛躍的に向上したのであった。個々の機械や生産工程は,一般に作業システムを核心とし,それを支えるエネルギー供給システム・制御情報システムと合わせて,三つのシステムにより構成されている。あとの二つのシステムは,作業システムの設計原理上の機能をできるかぎり向上させることに究極的な目的がある。産業革命の際には,エネルギー供給システムの役割は大きかったが,制御情報システムにはいまだみるべきものは少なかった。蒸気機関の回転を一定に保つための調速機,旋盤の工具を一定方向に運動させる送り台などが,そのわずかな事例であった。機械の操作における手の役割はいまだ圧倒的に大きかったのである。ということは,産業革命の過程において,従来の手工業もまた容易には駆逐されなかったことを意味している。1830年におけるイングランドとスコットランドの綿業では,なお20万台を下らぬ手織機が動いていた。だが,次の10年間に,手織機はとどめをさされた。産業資本はようやく,中世以来の手工業に打ち勝つことができた。この意味で,産業革命において実現した第1の技術体系は,産業資本の確立の技術的基礎を提供したということができるであろう。
【第2の技術体系】シュムペーターは,コンドラティエフ循環の第2波は,鉄道の建設を軸とした蒸気と鋼鉄の時代,第3波を電気・化学・自動車の時代とみなしているが,技術の全体系の変化をみ,経済史的な分析をも加えると,むしろ両者を一つの時代ととらえ,その前期の中心的な商品を鋼鉄,後期のそれを自動車,中間に兵器を位置づけることもできる。筆者はこの時期を第2次産業革命ととらえている。産業革命によって生産力の増大はつづいた。鉄道網は欧米にいよいよ大規模にひろがり,列車の速度は増し,本数は増え,重量も加速度的に増大した。そのため,従来の錬鉄や銑鉄では,その負荷に耐えられなくなった。鋼鉄ならば十分な強度をもっていたが,産業革命以来のるつぼ製鋼法では,大量生産は不可能で,価格はあまりに高かった。鋼鉄の大量生産の方法を発見して,その価格を下げることが急務であった。そして1855年に転炉製鋼法が,1864年に平炉製鋼法が発明されて,鉄道と材料との矛盾は解決の道を見出した。鋼鉄の時代が始まったのである。片方では,木綿工業においても,技術的矛盾が深まっていた。産業革命の時代では,染料の原料は,アカネグサやアイなど農作物に依存していた。しかし,作物の生産量は,天候の如何で大きく左右されたり,市場の動向によって作付け転換も頻発したりした。木綿の生産量が増大すればするほど,そのような不安定な原料供給では,木綿工業のいっそうの成長は困難になった。都市ガスの製造の際の廃棄物であるタールと,芳香族分子の構造を明らかにした有機化学の発展とが,その予盾を解決した。タールのなかから,染料を合成すべき中間原料が続々と発見されたのである。木綿工業がいよいよ膨張すると同時に,合成化学工業の時代がひらかれたのだった。
工業生産力の増大はまた,都市への人口の集中をもたらした。そして工業は農業とは違って,昼と夜との区別にこだわらない。工場のみならず,そこで働く労働者の住宅においても,都布の街路でも,安定した照明が望まれた。産業革命期には,ステアリンろうそくや鯨油ランプや都市ガスが,その要求に応え,19世紀中葉以後は,石油ランプが鯨油ランプに代わったが,いずれも点滅がわずらわしく,煤や臭いや熱をまき散らしていた。アメリカでの電灯の発明が,それらの面倒を吹き払う道をさし示した。大都市ではまた,馬車による交通麻痺がひどくなってきた。ロンドンでは乗客の収容人員を増すために,2階建て馬車さえ登場したが,それも焼石に水であった。新しい交通機関が必要であった。電車と自動車はその解決のために登場したのである。電車の発明を可能にしたのは,電灯に電力を供給する発電機と,それと同じ原理にもとづく電動機の発明であった。そして,19世紀の電磁気学が,発明の基礎理論を提供したのである。自動車の発明を可能にしたのは,蒸気機関の効率の増大を追求した熱力学と,ガス機関以来の内燃機関の発展の過程で現れたガソリン機関との二つであった。大都市への人口の集中はまた,地価の高騰をひきおこし,それは高層建築を必然にした。産業革命期の煉瓦建築はもとより,銑鉄構造建築でも,それは困難であった。鋼鉄はここでもその高い強度によって,高層建築を可能にした。また鉄筋コンクリートの開発が高層建築時代を到来させもした。
さて,都市や農村をつなぐ鉄道網がひろがればひろがるほど,人の移動や物資の流通の頻度も範囲も増し,それは,広範な地域にわたる人や物資の情報を,いっそう価値あるものにした。産業革命期にすでに新聞は登場していたが,この時期の製紙や印刷の技術では,大量部数の発行は難しかった。木材をすりつぶしたグランド=パルプと,輪転印刷機とが,大量部数の新聞を誕生させた。その新聞にのる情報は,電信によって,各地から高速で新聞社に伝送されたのであった。情報伝送の高速化・大規模化とともに,その双方向同時伝送や操作の容易さもまた,経済規模の膨張に伴って,強く要求されるようになった。電話の発明は,その要求にぴったりと応えるものであった。そして電話は交換機を不可欠とし,交換機をそれぞれの中心として,電話のネットワークがひろがりはじめた。先に述べた発電機をかかえる中央発電所もまた,それらを拠点とする電力ネットワークを展開せざるをえない技術的必然性をかかえていて,ここに,電話と電力の分野において,システムの概念が成立した。電話網は1877年に,電力網は1881年にその展開を開始した。
ちょうど,この10年後がコンドラティエフ循環の第2波と第3波の境目である。このころまでに,鉄道や蒸気動力は,鋼鉄の開発を強く推進したが,その鉄道や蒸気動力の前には,自動車や電力,内燃機関などのライバルが現れていた。これに対して,鋼鉄は,ますます技術的進歩を遂げ,生産量を増大させた。1870年のイギリスの鋼鉄の生産量は22万tであったが,1900年には,それは490万tにはね上がっていた。だが,その飛躍も,ドイツやアメリカのそれには及ばなかった。1870年のドイツとアメリカのそれは,それぞれ13万t,4万tにすぎなかったのに,1900年には,636万t,1,019万tに達していたのである。18世紀末以来,技術革新の先頭を走りつづけていたイギリスは,第2次産業革命期において,首位の座をアメリカやドイツに奪われる羽目になった。第2次産業革命の過程で,欧米諸国の工業製品は,地球上を隈なくかけめぐるようになった。1858年に大西洋横断海底電線の敷設が成功し,1869年にスエズ運河が開通し,また同じ年に,アメリカ大陸横断鉄道が営業を開始した。大量生産された鋼鉄は,大型船舶の建造を可能にした。大洋の女王だった木造帆船の時代は,ようやく終末を迎えたのだ。1875年のイギリス船舶の建造トン数のうち,鋼船の占める比率は0%であったが,1890年には94.4%に達していたのである。その船舶に積まれて,木綿は世界の隅々にまで運ばれたが,それは後進国の産業革命を刺激し,木綿工業はインドや日本においても,19世紀末には定着しはじめていた。イギリスの木綿工業はそのライバルを,遠くアジアにみていたのである。最初は蒸気機関,やがて蒸気タービンを動力とした大型鋼船は,その安全のために無線通信を火のつくように要求した。電磁気学の進歩は電磁波の存在を予言し,1895年に,無線通信が誕生した。輸送技術と情報技術とは,つねに表裏一体となって進むのである。第2次産業革命はまたさまざまな形での資源の転換をひきおこした。産業革命において,木炭から石炭,木材から鉄材への転換のように,生物資源から鉱物資源への転換が始まっていたが,19世紀後半には,染料や医薬品においても,それが生じ,肥料においては,チリ硝石の涸渇が,空中窒素の固定化としてのアンモニア合成法を登場させた。他方,照明部門においても,1859年にアメリカで油井の掘さくに成功して以来,灯油ランプが鯨油ランプに代わった。鉱物資源そのものにおいても,まず自動車において,ついで軍艦において,石炭から石油への転換が開始された。鉱山や炭鉱では,富鉱の涸渇に伴って,貧鉱の大量採掘時代が始まり,選鉱の重点も,比重選鉱から浮遊選鉱に移った。 以上のような技術革新は,産業革命期の企業とは違った新しい企業を続々と生み出した。株式会社制度は普遍化し,銀行や持株会社が,新事業への投資に中心的な役割を果たすようになった。第2次産業革命期においては,大量生産によるコスト低下の効果がいっそう著しく,収益を生むまでには長期間を要する研究投資の規模も日増しに増大したので,競争における大質本の優位は,動かしがたいものとなった。新企業はみるみる巨大化し,激しい競争の結果,企業合同がしきりに行われるようになった。産業革命が産業資本主義の確立をもたらしたのに対応して,第2次産業革命は,独占資本主義の成立をもたらしたのであった。資本の蓄積は加速度的に増大したので,欧米諸国の企業は,世界のほかの地域に対して,商品のみならず資本の輸出をも増大させ,欧米諸国は植民地の分割を競い合った。帝国主義の時代が到来したのである。
帝国主義諸国間の利害が鋭く対立する一方,とくに西欧では海外資源への依存度が増大していたから,制海権の如何は,国の死命を制するものとなった。あたかも第2次産業革命において,従来の黒色火薬よりはるかに強力な新火薬が次々と開発されていった。それに対応する鋼材もまた量産段階に入っていたので,軍艦群はその様相を一変せざるをえなくなった。魚形水雷の登場がそれに拍車をかけ,水雷艇から戦艦にいたる連合艦隊が形成された。
第一次世界大戦は,第2次産業革命期の全技術を結集して戦われた。軍用機や戦車が新しく登場し,戦争そのものは空前の破壊戦であり,兵器の大量消耗戦であった。このとき以後,独占資本主義は,大量生産大量消費経済に突入した。1920年代は,第2次産業革命の総仕上げのような時代であった。欧米諸国でラジオ放送やレコード・映画などの新しい情報技術が急速にひろがり,情報化社会はその幕を開いた。ことにアメリカでは,家庭電化とモータリゼーションが爆発的にひろがり,使い捨て時代も始まった。自動車の大量生産は,鋼材・工作機械・板ガラス・ゴム・石油などの技術開発と大量生産を強力に推進した。それは,産業革命後期の鉄道の役割に対応するものであった。1937年のアメリカでは,自動車工業は鋼鉄の20%,ガラスの73%,ガソリンの90%,ゴムの80%を消費していたのである。そして,鉄道と石炭の時代は,今や本格的に自動車と石油の時代に移り変わりはじめた。
【第3の技術体系の成立】1920年代のアメリカ的生活様式の開花を先頭として,世界経済は順調に成長しているようにみえたが,1929年の大恐慌はその繁栄に終止符を打った。このとき,巨大企業は,技術革新によってこそ,危機は打開できると考えた。アメリカでは,高分子化学と電子工学の急速な体系化に伴って,ナイロンとテレビジョンが開発された。ナチス党が権力を握ったドイツでは,次の戦争の準備のために,合成ゴムとジェット機とミサイルが開発された。イギリスではドイツ空軍の来襲に備えて,電子工学の粋を尽くしたレーダーが開発され,ジェット機の開発も着手された。第2の技術体系の全面的形成ののちに,再び新しい技術体系がその姿を現しはじめたのである。
注目されるのは,第1や第2の技術体系の場合とは違って,これらの技術開発は,技術体系内部の諸方面から火のつくように要求されたものではなかった,ということである。要求は巨大企業やファシズム国家の危機という,それ自体の矛盾から発生したものであった。この傾向は,第3の技術体系の形成の全過程にわたって貫かれ,年をおうごとに,その濃度を増すのであった。第二次世界大戦において,新しい軍事技術は全面的に開花し,その末期には,核兵器と電子計算機が開発された。そして,これらの軍事技術は,戦後,相次いで民間技術に変身していった。シュムペーターのイノベーション理論は,この時期において,はじめてもてはやされた。戦後技術革新は,コンドラティエフ循環の第4波の到来を示すともいわれたのである。 産業革命は確かに華やかに進行した。テレビジョン放送はまたたくまに工業国で普及し,さまざまのプラスチックや合成繊維が,相次いで登場した。従来の化学工業は,一部製品の原料工業というべきものであったが,今やそれはあらゆる工業製品にかかわる材料工業の観を呈してきた。一方,電子工業においては,1948年にトランジスタが発明されて,その発展はめざましいものとなった。ことにコンピュータは,トランジスタを得て,その信頼性が著しく増し,1959年に開発された集積回路を得て急速に小型化し,テレビ放送と合わせて,情報化社会は本格化した。戦後の軍事技術は,核ミサィルを中心として,大きく再編成されてきた。1957年のソヴィエトによる人工衛星の打ち上げ以来,核ミサイルと軍事衛星のネットワークは,宇宙空間にひろがった。それらの軍事技術もまた民間技術に移転され,原子力発電と宇宙開発が1960年代から70年代にかけて,強力に推進された。軍事技術・民間技術ともに,制御情報システムの進歩は,第3の技術体系を特色づけるものであった。それは第2の技術体系の産物たる工作機械や化学機械・製鉄機械などの設計原理上の機能を,ぎりぎりまでにしぼりだす一方,宇宙開発やジェット航空網における高速と,石油化学や原子炉における精妙な反応などを技術的に可能にした。こうして,戦後技術革新は,工業国の生産力をいよいよ増大させたが,その一方で,1920年代のアメリカ的生活様式の世界への拡大が,より一層生産力の拡大に寄与していることが注目される。それは第2次産業革命前期の木綿工業や鉄道の役割に対応される。そして,もともと自動車は,馬車交通の矛盾を拡大すべく登場したにもかかわらず,モータリゼーションは,都市交通の矛盾をますます深めている。環境問題と合わせて,これは今日の企業では手に負えない根本矛盾である。