●木地屋 きじや
アジア 日本 AD
木地屋は山中の木を伐採し、これから轆轤(ろくろ)などの工具を用いて盆や椀などの木地をつくる特殊な工人をいい、良材を求めて山中を漂移しながら生計を立てた点に特色がみられる。木地くり・くりしなどのほか、轆轤を用いるところからろくろ師とも呼ばれた。木地屋は農民のように定住せず山中を移動することによってはじめて生計が立てられ、その独得な生活様式により定住する人びとからは一種特別視され、彼らもまた自らを誇る風がみられた。その顕著な例は、木地屋の職祖を小野宮惟喬親王としている点で、轆轤も惟喬親王の発明であると信じ、人にも信じさせようとしてきた。木地屋の本拠地である滋質県神崎郡永源寺町の小椋谷(旧愛知《えち》郡東小椋村)の蛭谷と君ケ畑には、それぞれ惟喬親王を祭ると伝える筒井八幡宮と太皇大明神の2社があり、両社は全国に散在する木地屋をその支配下に置いてきた。その方法は、両社から毎年人を派遣して連絡を保つというもので、これを氏子狩りと称した。もともとこれは祖神の神徳を説き、奉納金を納めさせるところに意味があった。そのかわりに木地屋はろくろ師の免許状や鑑札を受け、これを所持することで全国の山中を渡世する根拠を得た。山7合目から上は自由に伐採してよいなどといわれたという。木地屋の苗字が全国的に小椋(小倉・大蔵・大倉)姓が多いことも、両社の統制の大きかったことを物語っている。しかし、しだいに移動生活を断念して定着するようになり、それとともに木地屋を廃して農林業や炭焼きなどに転業する者がふえ、現在ではほとんど消滅して、わずかに東北地方のこけし作りや全国の漆器生産に名残りをとどめるにすぎない。
【木地屋の技術】木地屋の技術はその本源を一つに語ることにも示されるように、全国的に共通する部分が多い。木地の原材にはトチ・ケヤキ・ブナ・シオジ・クリ・ナラなどがおもに用いられ、このうちトチが最も良材とされ、ケヤキがこれに次ぐ。製作工程の違いにより柾目にとるものと板目にとるものがあり、一般には柾目が良品とされる。しかし、どちらの場合も芯は用いないで捨てたといわれるように、彼らは木材をぜいたくに使った。一般的な製作工程は、[1]原木を伐る、[2]アラガタ(粗型)をとる、[3]ナカキリ(内側の部分を粗くえぐりとる)、[4]ロクロ挽き、という順に行われる。まず、原木はヨキで倒し、その場でタマギリにする。その長さは新潟県新発田市の木地屋では10尺ぐらいといい、会津では4尺ぐらいという。これから木地の原型をとる。会津ではムキドリ・ブンギリという二つの方法が、別々の木地屋集落に伝えられてきた。ムキドリは新潟県でいうカタオコシと同じ方法で、まずタマギリした木の皮をヨキで1列はいでゆく。そして原型となるカタを原木からはぎとるようにして取ると、その隣りを1列同様にして作業を進め、これをぐるぐると回しながらつづけて、木の芯だけになるとこれを捨てる。新潟県の例では一人1日150とれれば腕がよいという。ブンギリは、タマギリした原木を半割りして芯を取り、これをヨキで適当な大きさに削り目を入れてタマギリし、くびれたところをノコで切り、さらにナタで割ってアラガタをとる。前者の場合は板目、後者の場合は柾目になる。これを木地小屋などの屋内に運ぶ。この仕事はナカキリの作業とともに女の役割とされた。だから、木地屋の嫁は木地屋出身でなければつとまらないとされ、木地屋どうしの婚姻が守られてきた理由にもなった。ナカキリはチョウナを用いて行った。そのあと、チョウナなどでさらに細かくていねいに削られて初めてロクロ挽きされた。轆轤にかけるのは並物は1度でよいとされたが、上物は2度、3度と轆轤にかけた。これを愛知県北設楽郡では、アラビキ・チュービキ・アゲビキなどと区別して呼んでいたが、それぞれの作業のあいだに木地を乾燥させる期間を10〜15日ほどあけた。
