●記号(学) きごう(がく)
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【記号】情報理論によれば,伝達過程は図表Aの一般図式で示すことができる。したがって,コミュニケーションのためには,送り手と受け手に共通のコードが必要であり,コードをもとにして初めてメッセージ(つまり,記号もしくは記号体系)はある意味を獲得する。逆に,参照コードがなければ,伝達過程は単なる刺激−反応の過程と化すのだから,コードがあってこそ,コミュニケーションは意味作用をなすわけだ。記号は〈ほかのものの代理をするもの〉だというのはごく素朴な記号のとらえ方であるが,刺激はまだそういうものではないのであって,ほかのあることを端的に喚起するだけだ(まぶしい光をあてられると目をつむる,大きな物音がするとびっくりするなど)。しかしながら,停止信号の赤ランプとか,警報のサイレンは,それぞれのコードをもった意味作用の過程を実現する。F.ド・ソシュールによれば,記号とは,シニフィアン(記号表現)とシニフィエ(記号内容)という2面からなる一つの実勢として定義づけられる。この記号観の利点は,機械論的な原子(アトム)化思考による単純化を人間科学において防止するということである。二重であるというその内的性格と,連関しているというその外的性格からして,弁証法的直観が前提になっていることは明らかである。ソシュールはまた,記号を別個にとらえるのではなく,一つの体系に構造的に属している要素,したがって,ほかの諸記号と連関し合っている要素としてとらえているのだから,構造主義的直観になじんでいたことになる。さらに,この記号観は,これだけで,人間科学において重要な二つの観点を併せもつがゆえに,それが方法論上に占める価値はきわめて高い。
記号研究は多種多様に行われているが,ここではU.エコ(1932〜 )の分類に従って略述しておく。
[1]記号と源 人為的記号はことば・符号・音符などのような,慣習的コードにもとづいて人類が意識的に生み出したものであり,自然的記号は徴候や証拠のように,自然な源に由来するものであって,意図的なものではない(皮膚の斑点から医者がある病気を診断するとか,黒雲が雨の近いことを示すなど)。こういう2種類の記号区分は古代人にも周知だった。両方の対立は判然としており自然的記号が記号と解されるのは,人間がそれを慣習体系にもとづいて記号として解釈するからにほかならない。
[2]記号と記号的特性 とどのつまり,現実はもろもろの対象をも含めて,すべてが記号ではないのかと疑ってもよかろう(レインコートは雨に結びつく。上座は座るためのものだが,目上・上等・ぜいたくなどの記号(しるし)でもある。この最後の場合は,対象の2次的機能ないし教示的効果といったほうが正しい)。
[3]記号と送り手の側の意図性・意識性 伝達的(意図的)記号と表情的(意図的ではないが,心の状態を露呈する)記号とに区別されるからといって,表情的記号がコード化されえないというわけではない(役者はある特定社会の身振りやことば遣いを弁別的・伝達的要素として模倣するし,視聴者はこうした記号をそういうものとして認知する)。表にはっきり出たり,漏れ出たりすると(ある感情などが),ある種の心理状態の記号(しるし)としてコード解読されてしまう(医学における症状(ルビ・・)も同じようなものである)。
[4]記号と回路感覚 器官だけに限ってみても,メッセージと化しうるような信号がいろいろ思いあたる。(a)臭覚−−徴候や証拠(食物の臭い),人為的・意図的な記号(しるし)(香水)。(b)触覚−−点字,聴覚障害者の手話など。(c)味覚−−コミュニケーション手段としての料理。国民性のしるしとしての食物の味つけなど。(d)視覚−−図像記号(イメージ)・書記素・符号・図表など。(e)聴覚−−(サイレン・クラクションなど)音による警報,口頭によることば(発声)。
[5]記号とその意味 意味論的価値をもつ記号と,記号自体や記号結合以外の意味をもたぬ記号(つまり,数学記号や音楽記号のように,統辞論的価値をもつ記号)とに分けることができる。前者の記号はさらに,一義的記号・両義的記号(相異なる意味をもつ)・多義的記号・曖昧な記号に細区分できる。
[6]記号と指向対象 指標・図像・象徴というC.S.パースの三分法を発展させたU.エコの図表ではおおむね次のようになる。
自然的記号は徴候と指標に分けられる。(a)徴候は指向対象と因果関係や隣接性があり(例“病いの徴候”“煙と火事”など)(b)指標は痕跡と証拠に区分される−−テーブル上のビンの跡,砂漠の足跡は,指向対象(ビン・足)との因果関係を推測させる。また,証拠(“棄てられたタオル・ハンカチーフ”などの犯罪証拠)は,指向対象との隣接性(“殺人犯がそのタオルを棄てた”)を推測させる。
人為的記号は生産的記号と代用的記号に分けられる。(a)前者はパースのいう図像であって,生産様態(対象の部分使用・転用・明示・投影など)に従って下位区分される。内在的記号(例“ピストルをさし示す指”)とは,対象の一部が全体を代表している場合である(ピストルの柄や撃鉄は,手の動きでそれがピストルであることを含意する)。転用的記号は素材のある一つの色,一局面を再現している場合(例“コラージュ画”)であるし,明示的記号は,対象そのものが記号のようになっている場合である(“シガレット=ケース”が“シガレット”“ボトル”が“酒”を表す場合)。異質的記号は投影的記号(遠近画法など)と特徴描写的記号(“シマウマを表す縞”“表意図形”など)とに分けられる。(b)もう一つの分枝たる人為的記号は代用的記号である。これに含まれるものとしては,優れて習慣的な記号−−言語記号(つまり象徴)や,ヴェクトルの針,視覚記号(“交通信号”“旗”等)や,紋章(“家紋”)およびそのほかのコード化された記号(例“将棋”)がある。
【記号学】まず記号学(または記号論)について各立場から表明された短い定義を引用する。「社会生活のさなかにおける記号の生態を研究する学問が考えられる……われわれは,これを記号学と呼ぶことにしたい」(ソシュール,1916)。「ありとあらゆる記号作用の基本的な多種多様さの本質についての所説……を私は記号論と呼ぶ」(パース,1931〜35)。「もろもろの記号についての包括的な所説を展開させる必要を痛感する……これをわれわれは記号論と呼ぶことにしたい」(モリス,1946)。「記号学はコミュニケーションの過程についての研究として(すなわち,他人に影響を及ぼすために用いられる手段,また影響されんとしている者からそういうものとして認められている手段についての研究として)定義されうる」(ビュイサンス,1967)。「記号学はいまなおそれ自体を探究しつつある」(バルト,1964)。「記号学は,さまざまの記号体系すなわちコードの機能作用を支配する一般原理を研究し,それらの類型学を確立しようという学問である」(プリエート)。「映画の記号学をやる必要がある」(メッツ,1968)。「映画記号学の基礎づけの視座に立てば研究が遂行されよう」(ベッテティーニ,1968)。「記号学的分析の第1課題は,個々の文学テクストの研究から,芸術的コミュニケーションを支配している記号体系の認知,また場合によっては再構築のために有用な原理を獲得することであろう」(アヴァッレ,1972)。「記号学的モデルは歴史的モデルである」(セグレ,1974)。「われわれが欲しているのは,ほかの諸学問への中立的な重ね合わせとしての記号論なんかではない」(ロッシ=ランディ,1975)。「“嘘についての理論”という定義が,一般記号論の十分に包括的なプログラムということになり得よう」(エコ,1975)。「人間行動の理論というアプローチは.人間の諸事象の総体の内部での諸行動を区別する可能性や,したがって,記号学に対象領域として満足させうるような,記号論的諸事象のよく画定された領域に到達する可能性を開くように思われる」(トラバント,1976)……こうしてみていくと,乱脈状態そのものであり,記号学者がいるだけ記号学の種類も異なるといわれるのも当然と思われる。しかしまた,「記号論的探究は,探究の果てにないものをもみいだすことなく,……ただ自分自身のイデオロギー的身振りを確認し,これを否定して,新たに出発しなおす,そんな探究なのだ」(クリステヴァ,1969)ということを知れば,こういう結果になるのが自然でもある。
このように多種多様な記号学(記号論)が存在する結果として,学問の名称も一定しないありさまだが,記号学なる用語はソシュールの命名法に従い,ヨーロッパで用いられてきたし,また記号論なる用語はパースの術語に従い,アメリカで用いられてきたという経緯がある。そこで1969年1月,パリで開催された国際委員会では,用語の曖昧さを解消すべく合議した末,記号論なる用語を採用することに決まった(もちろん,記号学の使用を禁止したわけではない)。国際記号論研究協会(IASS)が結成され,1974年にミラノにおいて第1回大会が行われ,各国の研究者が参加した。T.シービオク主宰の雑誌「セミオティカ」が刊行を開始した。そのほか,イタリアの“Versus”“Strumenti Critici”“Ikon”とか,ドイツ・カナダ・アメリカ・イスラエル・フランス・メキシコ・ブラジル・ソヴィエト・日本などでも専門の記号論雑誌が発行されるにいたった。とにかく,記号学・記号論の区別はほとんど意味をなさなくなっていくと思われる(F.ロッシ=ランディは一般的な記号の学を記号論,コード化された記号の学を記号学と呼び,A.J.グレマスは,表現の諸科学の研究を記号論,内容の諸部門の学を記号学と呼んで,両方の区別を提案しているし,そのほかにもいろいろな区分法を提案している学者がいることも事実だが)。
多様な記号論のなかに共通分母は存在するのかといえば,以下のような点が挙げられる(J.M.ペレス・トルネロ,ロレンソ・ビルチェスによる)。
[1]記号論は厳密な知識であろうとつとめる。個人的な主観主義や無秩序な知の集積を超克しようと絶えず試る。科学的知識への冒険を企てる学問ならすべてそうだが,記号論も自己批判と規制の手順を自ら具備した,首尾一貫し組織化された総体であろうとつとめる。したがって,絶えずそれ自体の発展をチェックするため,ある科学認識論的レヴェルを活用する。
[2]具体的な型(タイプ)の記号を扱うのでなく,いかなる記号をも扱う。ソシュールはもろもろの記号体系の一般科学としての記号学(記号論)を設計した。また,イェルムスレウは記号の(表現面でも内容面でも)形相と実質とを区別することによって,この設計を理論的に基礎づけるにいたった。イェルムスレウによれば,現存するさまざまな型(タイプ)の記号はいろいろな実質(音声・イメージなど)において現実化されるが,それらに共通の一局面(つまり,一つの形相を構築すること)が創られている。記号論的観点からは,こういう形相の組織化が関心事となる。すなわち,さまざまな記号体系がいかなる実質において顕現しようが,それには関係なく,それら記号体系を分析するのに同じような手順が利用されうるという意味なのである。
[3]恣意的記号と動機づけられた記号とを区別する。動機づけられた記号ならば,表象されたものと表象(representation)とのあいだに,因果関係が存在することだろう(この意味では,雨は雲に回付されるわけだ)。恣意的記号は,本質的に慣習的なものであり,しかも伝達的目標に仕えているのだから,そういう因果関係をかなぐり捨てている(したがって,たとえば,フランス語の“table”,カタラン語の“taula”,英語の“table”は,すべて同一の“テーブル”に回付されうる)。記号論は上のような区別を行うことによって,さまざまな言語の真の本性を理解するにいたっている。
[4]記号論は論理的分析や意味論的分析を補完する。ある言語のシニフィエ(記号内容)の面がシニフィアン(記号表現)の面にずばり類似しているとは考えられていない。シニフィアンの面もしくは顕現の面と,意味作用の面とのあいだには,さまざまなレヴェルが存在する。しかも,これらのレヴェルはそれぞれ先行レヴェルから演繹可能である。だから,たとえば生成文法論に従えば,深層構造は表層構造から論理的に演繹されうる。グレィマスの記号理論でも,さまざまな次元を階層的に次々と上へ重ね合わせることは,まったく自家薬籠中の事実である。したがって,論理的予測とシニフィエの生産とは,相互に緊密に連関し合っていると結論せねばならなくなろう。
[5]記号論にあっては,ことば(もろもろのことば)のメタ言語的能力が認識されるのであり,あげくは記号論そのものが,さまざまな対象ことばについての記述的メタ言語として設計されるにいたる。言語,とりわけ自然言語はそれ自体を問題にすることができる。すなわち,省察的に機能することができる(たとえば,われわれが常用している同じことばを問題にする場合)。それ自体を引き受ける,したがって,自己分析を行う−−これは言語の本質的な能力なのかも知れない。この意味では,記号論はもろもろの記号体系に没頭する一つのメタ言語と考えられる。
以上の五つが記号論に統一をもたらす基本的・一般的前提なのである。次にくるもの,それは文化的次元たると個人的次元たるとを問わず,意味総体としての意味論的宇宙の連接や顕現を説明するという仕事である。
次に,記号論と構造主義との関係をみておこう。これはことに文学批評との関連で論争を呼んできた事柄である。ダルコ・シルヴィオ・アヴァッレ(1920〜)の図式(B図参照)は端的に両者の対立点を示していてわかりやすい。大多数の人々によって行われた解決法は,文学作品という特異構造に専念する批評に構造主義的批評,また均質的で,より広範な若干の文学体系の記述に記号学的批評を指定するものである。だが,ある認識論的原理に着想を得た一つの方法たる構造主義を,一つの学問たる記号学(記号論)と対置してもたいした意味をなさない。ラングとパロルの対置にしても,一方の研究は他方の研究なしでは不可能という弁証法的関係にあるのだから,そういう対置は古風な構造主義ということになる。小宇宙と大宇宙との対置にしても,個性化の著しい文学作品に前者を,また,メッセージとコードが一致しがちな,より小さいジャンルを対象とする研究に後者を指定する場合には,やはりたいした意味をなさない(対象が違うにしろ,方法は必ずしも違っているわけではない)。構造と体系,メッセージとコード,テクストとモデルとのあいだに,つまり構造主義と記号論とのあいだに,開放的・弁証法的なアプローチを維持しなければ,二つの要素のうちの一つだけが得をするということはありえないのである。記号論は構造主義に対して方法論上の深みや,もろもろの体系・コードの設計図を提供するし,他方,構造主義的批評は文学的世界を記号体系として限定するように記号論に強いる(記号体系の特殊な情報価値にもとづいて,文学的世界を解読せねばならない)。したがって,記号論と構造主義とのあいだには対立があるどころか,双方間には相補的な交差が生じているのである。記号論と構造主義を結びつければ,構造主義が克服できなくなるというような異論は,まさに論外というべきであろう。
最後に,現代記号論の主要流派を見ておこう。
[1]ヨーロッパの流派:ソシュールの記号学を受け継いで,多数の学者が輩出した。E.ビュイサンスは『ことばと言述』(1943)において記号学をあらゆるコミュニケーション体系の研究と考えた。彼は,対立関係に従って組織されたもろもろの意味素の体系たる“意味単位”の研究が記号学の対象だとした。ルイ=J.プリエートはこのビュイサンスの仕事を続行し,『メッセージと信号』(1966)そのほかにおいて,伝達過程や,メッセージの伝播ないし記号行為や,これらの機能および経済性の諸メカニズムといった問題に専念した。イェルムスレウの理論はさておくとして,ソシュール系統の言語学者によって行われた記号学は,文学記号学には留意しないで,もっぱらコミュニケーション体系だけを考察してきた。他方,ロラン=バルトを旗頭にした“パリ学派”は,ソシュールを出発点にしながらも,すべてコミュニケーション体系は言語モデルに従って扱うことが可能なのだから,記号学は言語学の一部だと(ソシュール説を逆転して)主張し,文学記号学という特殊研究に没頭した。要約すれば,ビュイサンスとプリエートを代表者とする“コミュニケーションの記号学”と,バルトらによる“意味作用の記号学”(すべての事実,たとえば衣裳・食事・流行なども表意的であるから,コミュニケーションの意図が存在しなくとも,これらは記号学の対象となる)とに大別される。情報理論の発達につれて,社会生活全体がコミュニケーションであり,記号論によってこれを研究することが可能と主張する者が現れる。U.エコはその代表者であって,文化的過程をすべてコミュニケーション過程として研究しようというのが彼の目標なのである。なお,スペイン・ポルトガル・デンマークにおいても,文学記号学を中心に幅広い着実な研究が結実しつつある。東欧では,ルーマニアに文学記号学への関心を示す学者が出始めている。
[2]アメリカの流派:チャールズ=サンダース=パース(1839〜1914)という,ヨーロッパのソシュールに匹敵する山脈を擁して,この影響下に独立的な記号論が形成された。ソシュールの二分法に対して,三分法を唱えている点や,アメリカに流行した行動主義的な色彩が顕著に出ているのが特徴だ。とりわけ,チャールズ=モリスの唱えた,記号論的過程における5要素はその代表的なものである−−記号・受記号体・受記号体志向・被表示事物・記号表示条件。モリスはまた記号論を3分枝に区分した。(a)統辞論的記号論(記号相互間の形式的関係の考察),(b)意味論的記号論(記号と,記号が表示する対象とのあいだに存在する関係を研究),(c)語用論的記号論(記号を,それの受記号体との関係において分析)がそれだ。1939年以降,モリスは芸術記号論に専念した。彼の審美的記号に関する理論は,現代では,J.トラバントのようなドイツの若手学者によっても吸収されており,その重要性が実証されつつある。イタリアのエコもパース理論を広く活用している。
[3]ソヴィエトの文化記号論:A.A.ポチュブニャー(1835〜91)をはじめ,多数の先達を頂くソヴィエトでは,めざましい記号論の発展がみられる。V.N.トポーロフ・V.V.イヴァーノフや,とりわけJu.M.ロートマン・B.A.ウスペンスキーらによる。文化領域への記号論の導入(いわゆる第二次モデル化体系)は画期的な成果をもたらした。
そのほか,バフチーンなどを現代記号論に活用している雑種的なJ.クリステヴァ・M.ベンゼ・C.マルテーゼらも,この流派に感化されている。ポーランド・ハンガリーなどの記号論学者についてはいうまでもない。
〔参考文献〕A.マルケーゼ『構造主義の方法と試行』1981,創樹社
J.トラバント『記号論の基礎原理』1979,南江堂
Ph.リヴィエール,L.ダンシャン『言語学と新しい教養』1976,芸林書房
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