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●議会政治(西洋) ぎかいせいじ

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 国民が選挙した議員によって構成される議会で国家の最高政策(ふつうは立法の形をとる)を決定してゆく政治方式をいう。議会という制度があっても,必ずしも議会政治が実現しているとはいえない。たとえば1871年に制定されたドイツ帝国憲法(いわゆるビスマルク憲法)では,皇帝の権限がきわめて強く,帝国議会があっても,皇帝または皇帝の任命する宰相の政治に協賛する役割しか認められていなかったので,“似而非(えせ)立憲主義”などといわれた。第一次世界大戦後,1919年に制定されたドイツ共和国憲法(いわゆるワイマール憲法)では“議院内閣制”が採用され,内閣は議会の信任にもとづくこととなったので,議会政治の体制が実現した。

 ドイツ帝国憲法をモデルとして制定された大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法,1889年発布)においても,帝国議会は,天皇大権のもとで,藩閥出身の政治家や軍人・官僚の行う政治に協賛するための機関にすぎなかった。しかしこの憲法のもとでもしだいに政党政治が発展し,大正末期から昭和初期にかけて本格的な議会政治が展開する方向へ向かったが,これも一時のあだばなで,やがて軍部が政権を握り,議会と政党が無力化されてしまった。第二次世界大戦の敗戦後,大日本帝国憲法を全面的に改正した現在の日本国憲法が1947年から施行され,行政権をもつ内閣が国権の最高機関である国会に対して連帯責任を負う制度が実施されるようになって,本格的な議会政治が展開されるようになった。このような意味の議会政治の体制は,歴史上,まずイギリスで成立し発展した。

【イギリスにおける議会制度の起源と発達】イギリスの議会を意味するparliamentということばは,中世ラテン語で“話し合い”を意味するparliamentumということばに由来する。1066年のノルマン人の征服以後,イングランド王国は一つの封建国家となり,最高の封建領主である国王から土地を封与された封臣たちが,国王の諮問に応じていた。この封臣会議における特定の話し合いが13世紀中ごろからparliamentumと呼ばれ,しばしば開かれるようになって,常設の国家機関となった。また13世紀中ごろからしだいに,地方の州(または県,county)から騎士が中央に召集され,地方の実情について報告した。1260年代の“貴族の反乱”の際,貴族党の首領シモン=ド=モンフォールは1265年に初めて都市の市民の代表を召集した。エドワード1世(在位1272〜1307)が上述のような前例を受け継ぎ,1295年に彼が召集したいわゆる“模範議会”には,大土地所有者である俗貴族と聖貴族(大司教・司教・修道院長),各州から二名の騎士,各都市から二名の市民のほか,下級聖職者の代表も出席した。しかし下級聖職者の代表はその後議会に出席しなくなり,別に聖職者会議を構成した。上級聖職者は大土地所有者である聖貴族として俗貴族とともに貴族院(上院)を構成するようになる。騎士はもともと下級貴族であったが,地方の騎士封地に土着して,地域社会の指導層である地主(ジェントリ)=名望家層を形成した。州という地方自治体の代表として各州から二名の騎士,都市(バラ=borough)という自治体の代表としてそれぞれ二名の市民が召集され,これらの州騎士と市民が一緒に会合して,庶民院(下院)を構成した。14世紀中ごろに庶民院議長の地位が成立して,イングランド王国の議会は,貴族院と庶民院からなる二院制をとるようになり,庶民院は地方自治体の代表によって構成される代議機関となった。フランスの身分制議会である三部会のように三部制とならなかったのは,聖職者身分が分裂して,下級聖職者の代表が議会に出なくなり,貴族身分も分裂して,下級貴族であった騎士が市民とともに庶民院を形成するようになったからである。

 議会はもともと王国の最高法廷であった封臣会議における“話し合い”であり,そこでは最も重要な裁判が行われるとともに,立法も行われた。そこへ州騎士や市民が召集されたのは,戦争の費用などのため臨時に課税する必要がある場合,地方の代表を集めて同意(協賛)させることをおもな目的としていた。そこで,州騎士と市民は課税に協賛する代償として,地方におけるさまざまな苦情を救済する請願を提出し,請願にもとづいて法案が作成され,法案が貴族院の承認と国王の裁可をえれば,法律として成立する。こうして庶民院は立法に参与するようになった。1485年以後のテューダー王朝の時代は絶対王政の時代といわれ,王権が強大であったが,議会は存続した。しかし王権に対して従順で,“従順議会”などと呼ばれている。1603年以後のステュアート王朝の時代になると,課税の問題などをめぐって王と議会の対立が激化し,1642年に内乱が始まった。議会軍が王軍をやぶって,1649年に国王が処刑され,王制と貴族院が廃止されて,共和制となった。1653年に“統治章典”と呼ばれる憲法が制定され,そのもとで軍の指導者クロムウェル(1599〜1658)が護国卿(王に匹敵する最高官職)になったが,議会と衝突し,彼のもとで軍政が行われるようになった。彼の死後,1660年の王政復古とともに,中世以来の王と議会を中心とする政治体制が復活した。

 革命をへて王権に対する議会の権力が強化され,とくに課税など財政についての庶民院の権限が強くなった。また1679年ごろからは,王権を尊重するトーリー党と議会の権利を主張するホィッグ党の2大政党の対立が現れた。1685年に即位したジェームズ2世がカトリック教を復興しようとして専制行為を重ねると,両党の指導者たちが協議して,王の娘メアリの夫オレンジ公ウィリアム(オランダの統領)に,イギリス人の自由と新教を護るため来援するよう招請した。彼が兵を率いてロンドンに迫ると,王はフランスに逃亡し,1688年末に名誉革命が達成された。翌年初めに召集された議会がウィリアムおよびメアリを国王および女王に推戴し,議会が提出した「権利宣言」を彼らが裁可した。

【議会政治体制の確立】こうして成立した1689年の「権利章典」は成文憲法のないイギリスの政治体制を規定する最も重要な法律となった。これにより議会の立法権や財政に関する権限が確立され,王位継承の順序も議会の立法により規定されることとなった。17世紀の王と議会の闘争は,このようにして,議会の勝利に終わり,イギリスの憲法学者が、“議会主権”と呼ぶ体制が確立された。テューダー王朝の時代までの議会は王政に協賛する機関にすぎなかったが,17世紀の2度の革命をへて本格的な議会政治が展開するようになった。

 イギリスの内閣はステュアート朝初期には王の寵臣たちによって構成されていたが,名誉革命後議会の権力が強大になると,王は議会の有力者を大臣に任命せざるをえないこととなり,このようにして議院内閣制が発達した。初めのうちは両党から大臣が任命されたが,それでは内閣の意見が一致しにくかったので,総選挙で多数の議席を獲得した政党のみで内閣を構成するようになり,政党内閣制が成立した。

 名誉革命後も国王が閣議を主宰していたが,アン女王の時代,および1714年に即位したドイツのハノーヴァー家出身のジョージ1世の時代から,国王や女王は閣議にほとんど出席しなくなった。こうして内閣の最も有力な大臣が閣議を主宰するようになり,1721年からホイッグ党内閣を率いていたウォルポールが初めて「総理大臣」と呼ばれた。そして彼は1742年に,王がまだ信任していたにもかかわらず,議会の信任を得られないという理由で辞職した。こうして,王に対してではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が成立した。

 以上のようにして,18世紀のあいだに,“王は君臨すれども統治しない”立憲君主制のもとに,議会政治の体制が発展したが,当時の選挙権はきわめて限定され,有権者の少ない“腐敗選挙区”が多かったので,まだ議会民主制とはいえない状態であった。

【議会民主制の成立】1832年の議会改革(いわゆる第1次選挙法改正)により多くの腐敗選挙区が廃止され,都市選挙区で商店主以上が有権者となり,有権者数が43万余から65万余に増加した。このころからホイッグ党と急進派が合流して自由党と呼ばれ,トーリー党が保守党と呼ばれるようになり,19世紀後半には,グラッドストンの率いる自由党とディズレーリの指導する保守党により,典型的な2大政党による議会政治が展開された。1867年の第2次選挙法改正により都市選挙区内の小市民や労働者が有権者となり,有権者数が100万余から約200万に増加した。1872年には秘密投票法が成立し,1883年の腐敗行為防止法以後,買収等の腐敗行為がほとんどなくなった。1884年の第3次選挙法改正により県選挙区内の農業労働者等も有権者となり,有権者数が260万余から約440万に増加した。1885年の議席再分配法により人口に比例した選挙区割と1選挙区1議席の小選挙区制が実現した。こうして大衆選挙権と選挙制度の合理化により,イギリスの議会政治は大衆民主制の段階に入った。

 1900年に労働代表委員会が成立し,1906年に議席が約30に増加して労働党と改称した。1911年の国会法により貴族院の権限が削減されて,財政法案についての否決権や修正権を奪われ,その他の法案についても2年間の停止権しかないこととなった。1918年の国民代表法で21歳以上の成年男子普通選挙権が実現し,30歳以上で地方税納入者である婦人が有権者となり,1928年に男女平等の選挙権となった。1948年の国民代表法により居住地や大学選挙区で2票以上を行使する複票制が廃止されて,すべて一人1票となり,1832年以来の選挙制度の民主化が完成した。

 第一次世界大戦後,自由党がしだいに議席を減じて,労働党が2大政党の一つとなった。1931年の財政危機の際に挙国内閣が成立したが,第二次大戦後,保守・労働2大政党による議会政治の体制に戻った。1966年から自由党が若干議席を増し,スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの民族主義政党が若干の議席を獲得したが,小選挙区制のため第3党が議席を増すことは難しい。1969年に有権者の年齢資格が18歳に引き下げられた。1949年の国会法により貴族院の法案停止権が1年に短縮され,1958年に1代貴族法が成立し,1963年の貴族法により爵位放棄と女性貴族の貴族院出席が認められるなど,貴族院に関する若干の改革が行われたが,大部分世襲貴族からなるその構成については,基本的改革が行われていない。以上が“議会政治の母国”といわれるイギリスの議会政治体制の発展過程の概略である。ほかの国々の議会政治体制は,多かれ少なかれイギリスのそれをモデルとしているが,それぞれの国の歴史的背景と国情の相違により,いずれも若干異なっている。

【アメリカ合衆国の議会政治】北アメリカにおけるイギリスの13の植民地が独立して形成されたアメリカ合衆国では,1787年に憲法が制定された。この憲法では,上述のようなイギリス流の議院内閣制(立法府である議会の一委員会であるかのごとき内閣が行政権をもつ)が採用されず,厳密な三権分立の原則にもとづいて,行政権をもつ大統領は,立法府である議会とは別に選挙され,議会に対して責任を負うことなく,議会を解散する権限ももっていない。また大統領の任命する各省長官も議会に議席をもたない。このような合衆国の政治制度は,議院内閣制に対して「大統領制」と呼ばれている。合衆国の連邦議会は,各州から二名ずつ選出される議員によって構成される上院と,各州より人口に比例して選出される議員からなる下院の2院制をとっている。上院は高級官吏の任命と条約締結について同意権(行政参与権)をもっている。権力分立のため立法はすべて議員立法の形をとり,議会の両院を通過した法案に対して大統領は拒否権をもつが,議会が3分の2以上の多数で再び可決すれば法律として成立する。連邦議会では委員会制度が発達し,財政・外交・軍事などに関する委員会が大きな権限をもっていて,大統領を制肘することがしばしばあるので,大統領制のもとでも議会政治が行われているとみることができる。大統領と議会を結ぶものとして,合衆国でも政党が発達し,19世紀中ごろから共和党と民主党の2大政党が交替で政権を担当してきた。イギリスと同じく小選挙区制のため,第3党が議席を増すことは難しい。議院内閣制と違って,大統領の属する政党と議会で多数の議席をもつ政党が相違する場合があって,その場合には大統領は議会における立法の形でその政策を実現することが難しくなり,そうでなくても,大統領は絶えず議会の動向やその操縦に気を配らなければならない。

【フランスの議会政治】フランスでは1789年の革命以来憲法と政体がめまぐるしく変わった。1791年の憲法では一院制の議会が立法権をもち,翌年からは国民公会が立法権のみならず行政権をも行使し,1795年からは立法府によって選ばれた5人の総裁(執政)が行政権を行使した。1799年からの統領政府およびナポレオンによる第1帝政の時代には議会の権能が弱かったが,1815年以後の復古王政および1830年以後の七月王政の時代に議院内閣制の慣行がしだいに成長した。1848年の二月革命後一院制の議会が設けられ,1852〜70年の第2帝政時代には皇帝の権限が強かった。1875年の第3共和制憲法では元老院と代議院の2院が設けられ,内閣は議会の信任にもとづき議会に対して責任を負う議院内閣制が採用され,議会政治の体制が確立された。しかし小党分立のため連立内閣の連帯性が弱く,1876年から1940年まで約100回の政変があり,内閣の平均寿命はわずか8カ月であった。1940年の敗戦後ヴィシー政権が一時独裁制を行い,1944年の解放後,1946年に第4共和制憲法が成立した。議会は国民議会と共和国参議院二院制であったが,後者の権限は弱く,内閣は国民議会の信任にもとづき,これにのみ責任を負うた。依然として小党分立のため,内閣の平均在任期間は6カ月であった。1958年のアルジェリア危機の際に政権を委ねられたド=ゴールは第5共和制憲法を国民投票にかけて成立させ,これまでの議会優位に対して大統領の権限を著しく強化した。国会は国民議会と上院の二院制で,首相と閣僚は議会に対して責任を負うが,国会議員となることはできない。大統領が閣僚会議を主宰し,首相は大統領に従属した地位で,アメリカの大統領制に近いが,国会の権限はアメリカの連邦議会に比べるとはるかに弱い。

【西ドイツの議会政治】1949年に米・英・仏3国占領地区でドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立し,その基本法で連邦議会と連邦参議院が設けられたが,後者は連邦を構成する各州政府の代表からなり,その権限はきわめて弱い。首相は連邦議会で選出され,議院内閣制が強化されている。ワイマール共和国で小党分立になった経験にかんがみ,比例代表制小選挙区制を併用して,内閣が弱体にならないようにしている。

【東ドイツその他】1949年に成立したドイツ民主共和国(東ドイツ)でも人民議会が設けられ,その他,ソヴィエト連邦には,連邦会議と民族会議からなる最高会議,中華人民共和国には,全国人民代表大会があり,議会に相当する機関が設けられている。しかしこれらの社会主義諸国では,共産党またはこれに類似する政党による一党独裁が行われ,反対党による政権交替もない。社会主義諸国における政治体制はプロレタリア民主主義の政体であるといわれるが,いわゆるブルジョワ民主主義諸国におけるような意味の,議会を中心とした議会政治は行われていない。