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●祇園会 ぎおんえ

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 祇園御霊会の略称。江戸時代の初頭以降,祇園祭とも呼ばれる。京都八坂神社の祭礼。毎年7月朔日の吉符入から同17日の前の祭(神輿渡御や山鉾巡行),24日の後の祭(神輿還御),同29日の神事済奉告祭までの約1カ月間の祭礼の総称。陰暦時代は前の祭が6月7日,後の祭が6月14日に催されていた。『祇園社本縁録(ぎおんしゃほんえんろく)』によると,869年(貞観11)の悪疫流行のさい,日本66カ国の数にならって66本の鉾をつくって牛頭天王を祀り,神泉苑に送ったのが,その創始と伝える。平安時代の京都およびその近郊では,悪疫退散を祈る多くの霊場があったが,祇園社の鎮座する八坂の地は,そうした霊場の一つであり,この869年の御霊会は,それに因むものと思われる。ただし『二十二社註式』は970年(天禄1)より毎年6月14日に挙行されるようになったとし,『本縁録』とのあいだに内容上の差異を生じているが,970年の例は,祇園会が官祭として挙行されるようになったことを示すものと考えられる。祇園会は各種の神事がその中心となるが,なかでも御旅所への神輿渡御と本社への還幸は,人々の耳目を集め,神輿行列をみんものと,道筋に棧橋を設け見物した例が平安時代よりみられる。そして行列の先頭をきる馬長は,その衣裳の豪華さと相まって人気を博した。平安時代の祇園会は官祭であったため,都人の祭礼への参加が,どのような形態でなされたのかは必ずしも明らかではないが,11世紀後半からは田楽の流行とも相まって,「院の歩田楽」「文殿歩田楽」「侍の歩田楽」といった,いわば職場単位で組織された田楽集団が,この行列に供奉するようになり,また平安時代末期には,それまで公家が勤仕していた馬長を,洛中の富家があたるようになり,徐々に祭礼への参加が広められていった。したがって平安時代より鎌倉時代にかけての祇園会は,神輿渡御が中心となっていたが,鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて,それまで脇役であった山鉾の大型化がすすめられ,それに伴って,山鉾の巡行が祇園会の中心的地位を占めるようになっていった。山鉾は,999年(長徳4)に京中の雑芸者旡骨が「大嘗会之標」のような柱をひいたのがその源流といわれるが,14世紀ごろからの京都における町共同体発達のなかで,氏子の町々や職業集団による作山が出されて神輿渡御に加わり,しだいに祭礼の中心を占めるようになっていった。室町時代になって,山鉾の大型化と意匠の豪華さがさらにすすめられ,また船鉾・鵲鉾などの名をもつものも現れ,応仁の乱以前には58基もの山鉾が町々でつくられるようになった。1467年(応仁1)の応仁の乱の勃発により,祇園会は中断のやむなきにいたり,再興されたのは30余年後の1500年(明応9)のことである。このとき復興された山鉾は鉾1基,山25基であったから乱前の半分以下ということになるが,しかしこれ以後,祇園社の氏子を形成する町衆らの経済的進度とともに華麗さを増し,16世紀ごろのその姿は,当時描かれた『洛中洛外図屏風』にみることができる。なお,山鉾巡行の順番を決定する鬮改めは,この再興時に定められたものである。江戸時代,祇園会は幕府の統制下に置かれ,武具の携帯なども禁じられるとともに細かく規制されたが,18世紀半ばごろからは駒形提灯を飾って催す宵山が定着するようになった。これは蝋燭など,新たな照明具の普及と密接に関わりをもつだろう。また時を同じくして氏子の家々では,屏風を中心とする累代の家の宝物を,宵山への参加者へ開陳するようになり,別名屏風祭と呼ばれるようになったが,これは氏子の大部分を占める商工業者の,文化的蓄積を示すものであったといってよい。そしてこれにより現行の祇園祭の形態がほぼ完成した。なお,1956年(昭和31)以降,山鉾の巡行経路が現行に変更され,また1966年(昭和41)には前後の祭を一本化するなどの方策がとられている。ちなみに,室町時代以降の京文化拡散のなかで小京都が成立し,祇園社もそれに伴って勧請された。そして祇園会もそれに付随して各地に伝えられ,たとえば現山口県津和野町には,鷺舞などの祇園会風流の古型がみられる。

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