●キエフ公国 キエフこうこく
NIS諸国 ロシア連邦 AD
ロシア最古の都市の一つであり,“ロシアの諸都市の母”と呼ばれるキエフを中心とする中世ロシアの一公国。9世紀末から12世紀にかけて,キエフの公がロシアのほかの諸公国をも支配したため,中世ロシア国家はキエフ=ルーシ(ロシア古名)の名で呼ばれることとなった。【建国】キエフ国家の建国の歴史は,キエフを中心としてドニエプル河の水系に沿って南北商業路が組織化されていく過程であった。北のバルト海から,ロシアを通って南のコンスタンチノープルにいたる“ヴァリャーグからギリシアへの道”の成立がそれである。伝説によれば,ヴァリャーグと呼ばれるノルマン人の一族がスラヴ人の招きにより首長リューリク(リューリク朝の祖)に率いられてノブゴロドへときた。このリューリクの子イーゴリのとき,一族のオレーグがこれを奉じて882年キエフを占領,征服したのがキエフ=ルーシの建国の年とされる。初期のキエフ公国の支配者たち(オレーグ・イーゴリ,その妻オリガ,その子スヴャトスラーフ)は,周辺のスラブ族の抵抗を打ち破って公権力の確立・強化を図るとともに,ステップの遊牧民とも戦って,支配領域の拡大につとめた。さらに当時東欧世界の中心であったビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルとの交易の拡大をめざし,一方では,かの地へ軍事遠征を行って圧力をかけつつ,他方では時に応じて帝国への軍事的協力者ともなって有利な交易条件の獲得につとめた。このようにして進められたルーシ-ビザンツ間貿易においては,前者からは毛皮・蝋・蜂蜜・奴隷が,後者からはブドウ酒・織物・香料などが輸出された。
【キリスト教化】980年,スヴャトスラーフの子ヴラディーミル1世のとき,キエフ=ルーシにビザンツからギリシア正教が国教として導入された。これは,ビザンツとの結びつきの強化によってキエフ公国の地位を高めようとする対外的意図とともに,国内的にはスラヴ人のあいだに権威をもっていた種族神に代えて,キリスト教の名のもとに,キエフの公の権威を高めようとするものであった。ヴラディーミル1世ののち,その子ヤロスラーフ(1019〜54)は農村に根強く残る異教の伝統に対し,キリスト教の布教につとめるとともに東西にわたる外征の成功により,キエフ国家の最盛期を現出させた。それ以外にもヤロスラーフはロシア最初の法典の編さんを行い,学芸の振興にも力を注ぎ“賢公”と呼ばれるにいたった。
【没落】ヤロスラーフののち,キエフ公国は急速に衰えていくこととなる。これは巨視的には,国際的な交易路の重心の変化により,“ヴァリャーグからギリシアへの道”の重要性が低下していったことを原因とするが,直接的には,公国内部の分裂の激化によってひきおこされた。ヤロスラーフの死後,その子,孫のあいだでキエフの公位を巡る争いがつづけられた。戦い合う諸公の一部が,当時ロシアの南東部のステップへと侵入してきた遊牧民ポーロヴェツ人と結んだことも,混迷に一層の拍車をかけることとなった。このような危機的状況において,1113年キエフの公となったヴラディーミル=モノマフは一時的に国内の統一を再建し,ポーロヴェツ人を撃退した。しかしながら彼の死後ロシアは再び分裂状態に陥る,各地の諸公が自立し,“分領公時代”と呼ばれる時期が始まるにおよび,キエフを中心としたロシアの統一は完全に失われた。それまで一つであったロシアはガリツィア・ヴォルイニ(西部)・ノブゴロド(北部)・スーズダリ(東北)をそれぞれ中心に,分化していく。こうして四分五裂したロシアの地を13世紀の初めに襲ったのがモンゴル軍である。チンギス汗の孫,バトゥーが率いるモンゴル軍はロシア諸公軍を苦もなく破り,キプチャク汗国を建てた。かくしてロシア人は15世紀末まで“モンゴルのくびき”に服することとなったのである。