●魏(三国) ぎ
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220〜265(黄初1〜咸煕2),中国,三国時代の王朝。曹操の子曹丕(文帝)が後漢最後の献帝に禅譲を迫って華北の地に建てた王朝。曹魏ともいう。都は洛陽。【歴史】後漢末,中央では宦官が専横して党錮の禁をおこし,地方では黄巾の乱がおこって後漢の勢威が衰え,董卓・袁紹・袁術・公孫讃らの群雄が各地に割拠した。曹操は初め袁紹にくみして董卓を攻めたが,のち東郡太守となって自立し,黄巾の余衆をくだしてこれを配下に加えるなどしだいに勢力を拡大した。196年(建安1)献帝を迎えて許(河南省許昌)に擁立し,ついで袁紹を破り,210年(建安15)ごろにはほぼ華北を統一した。また,208年に南下して江南をも平定しようとしたが,赤壁の戦いで孫権・劉備の連合軍に大敗し,以後三国分立の形勢を生じ,曹操の勢力は華北に限られることになった。しかし,同年丞相となり,213年魏公となり,216年魏王にすすんだ。220年(延長1)曹操が死ぬと,あとを継いだ子の丕は,その年の10月,献帝に禅譲を迫って帝位につき,魏王朝を建て,都を洛陽(河南省洛陽)に置いて黄初と建元した。これを機会に劉備・孫権もそれぞれ蜀・呉の王朝を建て,三国時代が始まった。
魏は三国のうち最も強大で,その領土は華北13州97都におよんでいたが,文帝の子明帝のときには,司馬懿の活躍で蜀将諸葛亮の攻撃を退けて魏の優勢を決定づけるとともに,遼東の公孫淵を討って遼東・楽浪など4郡を併合した。さらに次の斉王芳のときには毋(かん)丘倹を派遣して高句麗をも破り,東北方面に勢力を伸ばした。耶馬台国の女王卑弥呼の使者が訪れたのもこのころのことである。
一方,国内では国家体制の整備に伴い名門出身者が官界を独占するようになり,とくに権臣司馬氏の勢力が増大した。明帝の死後,司馬懿はその遺詔を受けて曹爽(そう)とともに幼少の斉王芳を補佐したが,曹爽一派の司馬氏排斥の動きに対し,249年(嘉平1)クーデタをおこして爽らを殺し,実権を握った。その子司馬師は斉王芳を廃して高貴郷公髦を立て,対立者を次々と倒し,師の弟司馬昭は,無謀な抵抗を試みた高貴郷公髦が殺されたのち,陳留王奐(元帝)を擁立し,晋公に封じられた。またさらに当時国勢の傾いていた蜀に対し,鍾会・トウガイ※注1※らに大軍を授けて263年(景元4)これを滅ぼし,その功によって翌年晋王にすすんだ。265年(咸煕2)昭の死後,その子司馬炎は元帝に迫って帝位を譲らせ,晋王朝を創設し,ここに魏は5代45年で滅んだ。
【社会・経済】漢以来,各地で豪族勢力が発展し,農民の窮乏・転落がはなはだしくなっていたが,さらに後漢末の動乱で大量の流民が発生し,農地は荒廃した。そうした状況に応じてすでに曹操時代に兵戸制・屯田制・戸調制が施行され,王朝成立後も引き継がれた。兵戸制は,一般農民が多く豪族勢力に吸収されて漢代のような徴兵制が困難になったので,兵力を確保するために始められた。曹操の兵力は,初め募兵や投降兵であったが,彼らに妻を与えて家をもたせ,一定地域に居住させて兵戸として一般民とは区別し,一定の生活を保障してその家族に代々兵役義務を負担させたのである。兵戸の身分は一般民より低くみられ,やがて賎民化した。屯田は,献帝を擁立した196年,軍糧確保のために許に設置され,以後各地に設けられた。魏の屯田には軍屯と民屯とがあり,軍屯は度支尚書または都督の所管で前線基地に置かれ,軍士が耕作したが,魏の場合注目されるのは内地に置かれた民屯である。典農中郎将などの典農官が所管し,農民を強制的に屯田民として耕作させ,その収穫の5,6割を国家の収入とし,国家財政の基盤とした。一方,一般州郡民の掌握も意図し,華北統一のころまでには,従来の税制を改めて田祖を畝ごと4升(約0.8・)とし,戸調を戸ごとに絹2匹,綿(まわた)2斤(約445g)と定めた。漢代の30分の1の田租,算賦などの人頭税に比べると,定率税から定額税へ,銭納から物納ヘ,人頭税から戸単位の課税へと変わったことを意味している。また文帝のときには,帝位につく直前,陳群の建議によって九品中正制(九品官人法)を施行し,地方の有力者を中正官とし,人材を9品にわけて推薦させ,官吏に任用しようとしたが,豪族が各地で勢力をもっていたのでその子弟が高い品位で選ばれた。とくに249年(赤烏12)司馬懿が州大中正を置くと家柄で固定されるようになり,門閥貴族制の成立を促すことになった。
【文化】文学では,曹操とその子の丕・植兄弟の詩賦が名高く,そのまわりに“建安七子”らが集まり,いわゆる建安文学を興隆させた。思想面では,訓詁学中心の礼教主義的儒学に対し,老荘思想を取り入れて儒学の聖人の“道”を“無”によって理解しようとする新解釈が現れた。その代表者が王粛・何晏・王弼(おうひつ)であり,何晏・王弼の哲学的対話は清談の風を開いた。仏教では,仏典の翻訳が盛んに行われるようになり,月氏出身の支謙が洛陽を中心に活躍し,朱士行が中国人として初めて受戒して西域に求法に出たという。後漢末に漢中を中心に宗教王国を建てた五斗米道は,曹操に平定されたが,張魯が万戸侯に封じられたので,経済的にも安定し,以後天師道教として発展した。
〔参考文献〕好並隆司「曹操政権論」『岩波講座世界歴史5』1970,岩波書店
越智重明『魏晋南朝の貴族制』1982,研文出版
川勝義雄『六朝貴族制社会の研究』1982,岩波書店
矢野主税『門閥社会成立史』1976,国書刊行会
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