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●管領 かんれい

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 管領はかんりょうとも読み,管理支配すること,またその職や人をいう語で,鎌倉幕府・室町幕府においてしばしば職名として用いられた。

 [1]室町幕府の職名。将軍を補佐して幕府政治全般にわたって管理する職。初めはこのような職を執事といったが,1360年ごろから管領と呼ぶようになった。鎌倉幕府でも執権や探題を管領と呼ぶことがあったが一般的ではない。また北条得宗(とくそう)家の家宰も管領と呼ばれた。この場合,得宗家の家臣を御内(みうち)といったことから,それら家臣を統轄する管領をとくに御内の管領,内管領と呼んでいる。室町幕府において引付頭人や侍所頭人などをときに管領と称したこともあるが,通常管領といえば幕府最高の職の将軍補佐役をいう。鎌倉時代,足利家では高氏が家(こう)宰を勤めたが,室町幕府開設後もひきつづいて将軍を補佐し執事と呼ばれた。初代将軍足利尊氏の執事は高師直(もろなお)で,その死後には一族の仁木頼章,ついで細川清氏がこの職に任命された。2代将軍足利義詮(よしあきら)のとき,足利一族である斯波高経(しばたかつね)がこの職につくことを要請され,1362年(貞治1)その子斯波義将(よしまさ)を就任させたということから,執事の職を管領と呼ぶようになり,単なる足利家の家宰としてではなく,幕府の要職としての制度的地位に定着したといわれている。義詮の死後,細川頼之が管領となったが,3代将軍足利義満が幼少であったため,管領の権力は増大した。こののち斯波・細川両家が交替して管領の職についたが,1398年(応永5)畠山基国が任ぜられてより,管領職は斯波・細川・畠山の三家から選任される慣習が生まれ,世人はこの三家を三職,あるいは三管・三管領と呼び,この三家は幕臣のなかの最高の家格とされた。6代将軍足利義教は将軍権力の回復をはかって種々の策を画した。評定衆引付頭人を置き,御前沙汰を行って,将軍の親政を実現することにより管領の権限を縮小し,一方有力大名の勢力をそぐ目的で,三管領の家である畠山家の内紛を助長するなど独裁的な政策を実行した。義教の死後,管領の権限はもとにもどったが,畠山家についで斯波家にも相続争いが生じ,応仁の乱後は細川家でも家中抗争が絶えず,三管領家の勢力は衰退し,管領の威信は失われた。とくに応仁・文明の乱後は長期間の欠任期も生じ,管領職は有名無実化した。1546年(天文15),このころ勢力のあった六角定頼が管領代に任ぜられたこともあるが,1563年(永禄6)ときの管領細川氏綱が没してのち,管領職の任命なくついに廃絶した。なお管領斯波義将は,1395年(応永2)将軍義満の出家に従って剃髪したのちも管領の職にあり,ここに初めて法体の管領が出現した。鎌倉幕府においては執権が出家するとその職を辞するきまりであり,前代の例をひきついで室町時代の管領も俗体であることを一般としたが,ここにいたって管領は俗体という慣習は破られた。このため法体の管領の場合,将軍元服などの幕府行事には管領の勤めるべき役を子息が出仕代行した。管領が将軍の意をうけて発行した文書には,本文の末尾を〈仰によって執達くだんのごとし〉と書き止める〈幕府御教書(みきょうじょ)上書き止め文言は御教書と同じであるけれどもとくに将軍の発給する下文を下達する文書を管領施行状,将軍が幼少などで文書を発給できないとき,その他禁制などに書き止めを「仰によって下知くだんのごとし〉として下付した幕府下知状がある。

 [2]室町幕府は関東統制のための機関として鎌倉府を置き,尊氏の子義詮ついで基氏およびその子孫を長官とし,斯波氏・高氏・上杉氏らを執事とした。この関東足利氏を通常関東公方鎌倉御所・鎌倉公方などと呼ぶが,当時関東の管領と呼ばれたこともある。

 しかし一般には京都の幕府にならって執事上杉氏を関東管領と呼んでいる。