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●カンボジア

アジア カンボジア王国 AD 

【メコン川の恵み】カンボジアはインドシナ半島が南シナ海にせり出した南西隅に位置し,その国土面積は約18万平方kmで、首都はプノンペン。大河のメコン川は国内を北から南へS字形に約500kmにわたり貫流し,プノンペンで二つの河流−メコン川本流とバサック川−に分かれ,そこヘトンレ=サップ川が合流する。これら四河流は河川交通の大動脈であり,河川港プノンペンには3,000トンの船が入る。大湖トンレ=サップには,増水期にメコン川の河流が逆流して流れこみ,湖水の面積が約3倍に膨れあがる。この湖は洪水を防ぐための自然の調節槽となっている。増水した水は掘割りや水路を通じて河縁よりずっと奥地まで浸水していく。メコン水系から離れた地域では、雨期の雨水が窪地や低地に流れこみ、大池や沼となり、耕作を可能にしている。この大河と大湖は,河川交通,穀倉地帯への用水の供給,淡水漁業など,人々の生活と深いかわりをもっている。中央平野部の大森林が国土の73%の面積を占め,耕地は16%にすぎない。地勢では東にチョンソン山脈,北にダンレック山地,西にカルダモウム・エレファンの両山脈がつながり,縁浅い盆の形状のごとく囲まれ,自然の陣壁を伴っている。この大地は高温多湿で蒸し暑く,平均気温が27度,乾季が12月から5月まで,雨季が6月から11月まで,年間降雨量は平均で1,400mmから2,000mmであり熱帯モンスーン気候である。

【社会と生活】カンボジアの人口は現在703万人台(1983年国連推計),メコン川デルタ地帯・トンレ=サップ湖周辺・中小河川岸など中央平野部に住民の95%が居住している。カンボジア人が全人口の約9割を占め,華僑系住民が約50万人,ヴェトナム系住民が約40万人,チャム人約12万人,それに山岳地帯に少数民族が住む。全人口の87%(1968)が農村部に定住する。村は冠水しない自然堤防上,微高地・小丘のスロープなどに立村する。村の規模は人口が約200人から400人ぐらいで,村を囲むように水田や畑地が拓けている。住居は杭上家屋で,木材・竹・棕櫚の葉で建てられ,湿気と輻射熱を避ける構造となっている。高床式の意味は土地の悪霊を遮断するといわれる。実際には床下が農具か牛車などの置場になり,家畜小屋と脱穀場も兼ねている。村はもともと緩かな血縁・地縁的共住集団をつくり,家族制度は双系制によるものが多い。日常生活は農作業カレンダーにそって営まれる。4月下旬に雨季の到来を告げる数回の降雨(マンゴー=シャワーと呼ぶ)があると,大地が雨水をのみこみ,緑葉色に変わる。動植物が生気を取り戻し,6月から田植えが始まる。クロマー(頭布)をかぶった女たちが共同で早苗を植えていく。農家一軒あたりの耕地は平均で約3.6ヘクタール(1968),それは人力(家族労働)と畜力(水牛2頭)で耕作できる範囲の農地である。しかし,粗放的農業であり,無肥料の場合が多く,天候に左右されやすい。食事は主食が米飯であるが,うどん・野菜と魚・スープなどである。衣服は女性が通常ブラウスにサロン(腰巻)であるが,祭礼や公式の席では民族衣裳サンポットを着る。カンボジア人は挨拶を顔前で合掌するごとく,篤信的な上座部仏教徒であり,国内に3,153寺院と約6万人の僧侶がいた(1967)。宗派には伝統派のモハニカイ派と改革派のタマユット派がある。

【歴史展開】カンボジアの歴史の特色は,早くからインド文化の枠組を借用して独自のクメール文化を創り出し,近隣諸民族へ政治的・文化的影響を与えてきたことである。アンコール遺跡として残る荘大な石造伽藍と寺院,絶妙な彫刻と浮彫りなどは,当時の高い文化水準を証左している。クメール朝(別名アンコール王朝)は最盛期の13世紀にインドシナ半島のほぼ全域を版図とする大帝国であった。その歴史は,前クメール朝時代(紀元前後〜802)・クメール朝(802〜1432)・後クメール朝(1432〜1863)・フランス植民地時代(1863〜1954)・民族独立国家建設時代(1954〜現在)の5時代に区分できる。前クメール朝時代:南部のメコン川デルタ地帯では,インド文明を受容して興起した扶南国が展開していたが,3,4世紀ごろからかつての属国であった北方の真臘国がメコン川中流域チャンパサック地方から広大な平野部へ南下しはじめた。真臘は7世紀前半に扶南を吸収合併したが,705年ごろ南の水真臘と北の陸真臘に分裂,ジャワ勢力が水真臘の一部を占拠した。クメール朝時代:802年にジャヤヴァルマン2世(802〜834)が国内を再統一して新王朝を創建した。以後クメール朝の諸王は,一時期を除きこのアンコールの大地に約550年間にわたり都城や寺院を造営しつづけ,これが現在のアンコール遺跡にあたる。アンコール=ワットを建立したスールヤヴァルマン2世(1113〜1150)およびアンコール=トム都城を造営したジャヤヴァルマン7世(1181〜1218?)の両治世下がクメール朝の最盛期で,その領域は属領も含め西がチャオプラヤ川メナム川)流域北部のスコータイから,南がマレイ半島北部地域,北がビエンチャン付近,東がチャンパまで拡大した。13世紀末ごろからシャム(タイ)のアユタヤ朝と戦争が始まり,14世紀後半に数度王都が陥落し,ついに1432年カンボジア中部のスレイ=サントールへ遷都し,アンコールの地を放棄した。後クメール朝時代:首都はスレイ=サントールからすぐにプノンペンヘ移され,やがて1528年にロヴェックヘ,さらに1618年にウドーンヘ次々と遷都された。カンボジアはシャムとヴェトナム(阮朝)の両隣国に狭撃され,領土が蚕食された。1841年に阮朝に併合されたが,1845年にシャム(タイ)の力を借りて回復した。フランス植民地時代:1863年ノロドム王はシャムの軛から逃れるためフランスと保護条約を結んだ。農民には賦役や税金が課せられ,フランス人が肥沃な払い下げ地にゴムや米のプランテーションを拓いた。儲かる植民地のために経済上の搾取が行われ,教育における愚民政策,社会生活において放置主義がとられた。これら植民地時代の政策は独立後の国内建設を遅滞させる原因となっている。独立はシアヌーク王の積極的な努力により1954年に達成した。民族独立国家建設時代:立国の基本路線は非同盟中立政策であり,ヴェトナム戦争・ラオス内戦の戦火が波及しないように国内外の政策が模索された。1955年に国民の総意が反映される「人民社会主義共同体(略称サンクム)」が創設され,退位したシアヌークが総裁に就任した。サンクムは仏教護持と王制社会主義をめざす新国民運動であり,左から右までの政治勢力を大同団結させた組織であった。経済自主路線をめぐって,左右両派の論争と確執が表面化し,右派が実権を握り,1970年3月にシアヌーク元首を解任した。ヴェトナム戦争と並行して内戦が始まり,1975年4月に中国派の民主カンボジア政権が誕生した。この政権(ポルポト)はプノンペンの無人化・貨幣の廃止・仏教の禁止・鎖国・生活と労働の集団化など従来の社会・経済・価値体系などを無視した国民大改造の実験を行い,恐怖政治を敷き,徹底的な人的物的破壊を行った。その結果約200万人が不自然な死に追いやられたといわれる。1979年1月にヴェトナム派のカンボジア人民共和国(ヘンサムリン)が成立した。民主カンボジア連合勢力はタイ国境地帯で反ヴェトナムのゲリラ闘争をつづけている。

【新しい政治の展開】親ヴェトナム派の人民共和国(ヘンサムリン)政権が国内を実効支配している。ヴェトナム軍が条約に基づき約20万人駐留し,同政権を援護している。この人民共和国派と民主カンボジア派との軍事的対決は,単なる国内問題ではなく,前者をヴェトナム・ソ連・東欧諸国が支援し,後者を中国・アセアン諸国が助成し,国際的な政治抗争の色合いが強く出ている。カンボジア問題は東西両陣営,中ソ・中越の対立を反映している。

 現在の人口は703万人台(1983年国連推計)に回復し,ヴェトナム・ソ連・東欧諸国の援助で国内建設が急ピッチで進んでいる。しかし,米穀生産は1950年代の水準にまで後退している。その理由は身体の健康な農民層が少ないこと,灌漑網の破壊,家畜の減少,人材の欠落などである。人民共和国政権は農民生産の回復に努めている。1980年3月から新通貨が発行され,諸施設と工場の復旧が進められている。

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