●広東貿易 カントンぼうえき
アジア 中華人民共和国 AD
1685年(康煕24),清朝は海禁を解除して4港を開き,1757年(乾隆22),さらに外国との貿易を広州1港に制限した。広州におけるおもな貿易の相手国はイギリスであり,主要な輸出品は茶であった。一方,清に対するイギリスの主要輸出品は羊毛製品であったが,現実的にはイギリスにとって輸入超過の片貿易であり,貿易収支の決済手段として銀が用いられたため中国には大量の銀が流入した。イギリスの対中国貿易には,貿易を独占していた東インド会社によるものと,東インド会社からライセンスを受けて別の船で貿易を行う地方貿易商人によるものとがあった。1784年帰正法が成立し関税率が引き下げられると,イギリス東インド会社の輸入額が激増し,銀不足に拍車をかけたため,1780年代からインド産アヘンの対中国輸出が開始された。1796年に中国政府による最初のアヘン輸入禁令が出されたが,密貿易の形で継続し,1826年を境に中国から銀が逆流しはじめた。アヘン密貿易の担い手は地方貿易商人であり,1820年代には東インド会社の貿易より地方貿易のほうが大きくなっていた。1834年,イギリス本国における自由貿易運動(ランカシャーの綿業資本によって推進された),さらに現地における地方貿易商人による自由貿易運動の結果,東インド会社の貿易独占は廃止され自由貿易によるアヘン売り込みが増加するとともに広東体制への挑戦が行われた。アヘン戦争の結果,南京条約により5港が開港され,広州における貿易独占体制は終息を迎えることになる。