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●間島問題 かんとうもんだい

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 間島問題といえば,とかく間島地方をめぐる国境画定紛争や在住朝鮮人問題のようにいわれてきた。しかし実際の歴史では,一貫して日本帝国主義による“不逞鮮人討伐”問題として存在していた。朝鮮人の間島への移住も,ほかならぬ日本帝国主義の朝鮮侵略の結果である。朝鮮人の間島移住が朝鮮“併合”期と三・一運動期に多いことをみてもわかる。間島における朝日・日中・朝中の矛盾は,非常に複雑にからみあっているが,その基本的矛盾は,あくまで日本帝国主義と朝鮮人民との矛盾であった。日中・朝中の矛盾は,朝鮮人民の反日闘争に対する日帝の弾圧強化と中国侵略拡大によって拡大深化したものである。

間島協約と南溝東蒙条約】間島には早くから朝鮮人の移住があったが,日露戦争後から“併合”にかけて,その数は急増した。日露戦争後「韓国統監府」を設置した日本は,間島までも朝鮮領にしようと意図し,1907年(明治40),実力で統監府間島派出所を設置した。しかし「満州」侵略を急いだ日本は,より有利な条件をもとめて間島地方の領有を放棄する代わりに,在住朝鮮人に対する支配権を確固たるものにする,「間島に関する日清協約」(間島協約)を強要した(1909)。この協約で日本は,在住朝鮮人に対する裁判立会権・知照権・覆審請求権を得て弾圧の糸口をつかんだ(第4条)。朝鮮“併合”(1910)後日本は,この条項を拡大解釈し,間島朝鮮人はすべて“帝国臣民”であるから,日本の法権に服すべきだと主張して中国側と対立した。1915年(大正4),日本は「21カ条要求」の第2号案件として「南満州および東部内蒙古に関する条約」(南満東蒙条約)を強要し,これを間島に適用した。それは在住朝鮮人の土地所有権を消滅させる代わりに,弾圧のための領事裁判権を掌握するものであった。

【間島大討伐と三矢協定】1919年(大正8)3月から始まる三・一運動は間島にも波及し,激烈な武装闘争へと発展した。数万の朝鮮人民が過激派から購入した武器をもって日帝諸機関を襲撃した。この民族解放闘争に対し日帝は1920年9〜10月に大軍を間島に不法侵入させ,独立運動の“策源地”間島の朝鮮人を虐殺した。その弾圧は,独立軍と住民が密着し区別がつかないの口実で殺しつくし,奪いつくし,焼きつくす三光作戦そのものであった。世にいう「琿春事件」がそれである。ついで1921年(大正10),朝鮮総督府は間島朝鮮人弾圧の“総路線”ともいうべき「在外朝鮮人に関する諸問題」をまとめ,警察・軍隊による独立軍討伐を続行する一方,各種の親日団体を結成して解放勢力の内部崩壊を画策した。「朝鮮人民会」「保民会」「朝鮮人会」がそれで,なかでも「保民会」は「併合」のときの売国団体「一進会」の残党をかりあつめてつくった武装せる諜報組織で,多くの独立運動者を苦しめた「売国団体」である。日帝の弾圧強化に対し中国官憲は,中国人地主の利益に立脚して日帝に侵略の口実を与えないためと称して朝鮮人放逐運動を展開した。帰化朝鮮人名儀でする土地購入を禁じたり,朝鮮人の帰化条件に中国衣服の着用を義務づけたり(易服)するなど圧迫を強化した。1925年(大正14)6月には,朝鮮総督府とのあいだに「不逞鮮人の取締方に関する朝鮮総督府奉天省間の協定」(三矢協定)まで締結して,朝鮮人独立運動家弾圧に協力した。その結果在住朝鮮人の地位はきわめて不安定なものになり,その生活は悲惨をきわめた。その意味で「三矢協定」は日帝による満州占領以前における日中支配者間の“不逞鮮人討伐”共同協定の最たるもので,日本帝国主義による被抑圧民族間分断政策の成功を示すものであった。満州事変後は日本帝国主義と朝鮮人民との矛盾は,間島から満州全域へと拡大することによって,間島問題も「在満州朝鮮人問題」のなかに包含されるようになる。

〔参考文献〕井上学「日本帝国主義と間島問題」『朝鮮史研究会論文集』10集1973,

姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』1979,東京大学出版会