●関東州 かんとうしゅう
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日露戦争の結果,日本がロシアより租借権を護り受けた遼東半島南端の地。【沿革】満州(現,中国東北部)南部より黄海・渤海湾に突出する遼東半島は,海上交通の要衝として重視され,清朝は旅順に軍港施設を建設していた。日本は日清戦争中にこの半島を占領し,下関条約によって営口以南鴨緑江河口にいたる地域を日本に割譲することが決定された。しかし,日本の遼東半島領有は,ロシアの南下政策に多大の打撃を与えることになり,ロシアはドイツ・フランスを誘い,日本に遼東半島を清国に還付することを勧告し,艦隊を芝罘沖に集結して日本に圧力をかけた。このため日本は遼東半島を清国に返還するにいたった(三国干渉)。1898年ロシアは清国との間に露清条約を結び遼東半島を清国より租借するにいたった。日露戦争が発生するや,日本は再び同半島を占領し,ここに軍政を施行した。そして,ポーツマス条約によって,日本はロシアの租借権を受け継ぎ,第二次世界大戦終結まで日本の租借統治下に置かれた。第二次世界大戦後,再びロシアの租借地となったが,1952年中国に返還されるにいたった。
【地域の概要】日露戦争によってロシアより日本に移譲された租借地関東州は,遼島半島の普蘭店北方の長陽寺会付近より,貔子窩東方の碧流河付近にいたる線以南の地域で,付近の島嶼を加えると,その面積は約34,000平方kmであった。この地域は,地形的に丘陵地帯で平野部分が少なく,産業上では確たる発展はみられないが,海岸線の出入が多く天然の良港に富み,その地理的な位置とともに商業交通の要衝としての発展条件を備えているところといえる。特にロシアの統治時代に漁村青泥窪をもととして建設された大連は,一大商港としての発展を示し,日本の統治後は自由港としての開放が宣言され,満州(中国東北部)の一大門戸として繁栄を示すにいたった。なお隣接の旅順は天然の良港としての条件をもとに,清国時代に北洋艦隊の基地として軍港建設が行われ,ロシア統治時代にはロシアのアジア政策の拠点として一大軍都化された。しかし日本統治時代には,日本は旅順に軍事的価値を認めず,旅順工科大学を中心とした学都として,僅かに往時の繁栄を維持するのみであった。
【租借行政】ロシアから租借権を継承した日本は,1905年(明治38)遼陽に軍政をもととした関東総督府を設置して統治に乗りだした。翌1906年(明治39)には関東都督府と改称し旅順に移転するとともに外面的には民政に移管されたが,なお十数年にわたり武官都督の持続がみられている。こうして,都督府のもとに州内を数行政区に分けて,各行政区には民政者を置くという行政組織のもとに統治がつづけられた。しかし,対華二十一カ条要求による租借権の延長をもとに,1919年(大正8)関東都督府は関東庁と改称され,より強力な統治組織への確立がはかられ,日本の大陸政策の拠点としての重要度を強めていった。1932年(昭和7)の満州国の成立は関東州のあり方にも大きな影響をもたらした。1934年(昭和9)日本政府は新京(長春)に内閣総理大臣の監督に属する関東局を設置し,その監督下に関東庁を旅順(1937年に大連に移転)に置くという形に改編され,関東庁長官は駐満全権大使の任命によることとされた。
以上のように関東州における行政組織については,何度かにわたる改編がみられるのであるが,財政面については,1907年(明治40)に法律第17号による関東州特別会計と勅令第48号による関東州地方費会計によって運営がつづけられた。1934年(昭和9)関東局の設置がみられると,従来の関東庁長官の権限の大部分は駐満全権大使に移り,財政についても例外ではなく,関東庁長官は地方費会計を委任されるのみとされ,その権限は大幅に縮少された。この点からも満州国成立後の関東州租借行政の変化をみることができる。
〔参考文献〕大連民政署編「大連民政31年記念誌」1938
満州国通信社編「満州国現勢」1934