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●ガンディー暗殺 ガンディーあんさつ

アジア インド AD1948 インド

 インドの政治家のなかで,ガンディー姓で暗殺された人は二人いる。一人は,独立運動の指導者であったガンディー,マハトマー(1869〜1948)であり,もう1人は,独立インドの政治家ガンディー,インディラ(1917〜84)である。両者ともインド国民会議派の指導者であった点は共通しているが,双方のあいだに血縁関係はない。

 (I)マハトマー=ガンディーの暗殺は,インドが独立した翌年の1948年1月30日に首都ニューデリーのビルラー財閥邸でおきた。その日,ガンディーは慣例の祈りのためにビルラー邸の庭園に出たところ,群衆をかきわけて接近したヒンドゥー教徒V.N.ゴードセーに射殺されたのである。ガンディーの暗殺は,1947年8月のインドとパキスタンの分離独立と不可分に結びついている。この分離独立は,インド亜大陸をムスリム多数地域のパキスタンと,ヒンドゥー教徒多数地域のインドとに宗教上の相違に従って分離した結果実現された。両国の国境線は独立直後に確定され,それを機にパキスタンからはシクとヒンドゥーの両教徒が,またインドからはムスリムがそれぞれ大量移動した。その移住難民の総数は,1947年の暮までに1,500万人にのぼるといわれている。この移住には混乱期につきものの虐殺・略奪や暴行が相次ぎ,老人・婦人・子どもが犠牲者とされ,死者も全体で20万とも50万ともされている。ガンディーは,その政治信条としてヒンドゥー教徒とムスリムとの融和と統一を主張していた。彼は,独立記念祝典にも顔を出さず,両教徒の団結を説く旅に出ていた。この混乱期に,ガンディーは少数者の立場に置かれたムスリムの利益を守ることを主張し,ヒンドゥー教徒の思い上がりを徹底的に批判する立場を鮮明にしていた。このとき,現在の政情混乱の元凶はムスリムであると主張する1部のヒンドゥー至上主義者は,ガンディーの言動に反発を強めていた。ゴードセーもその一人であって,彼は,ヒンドゥー至上主義団体のヒンドウー=マハーサバー(ヒンドゥー教徒大連盟)の一員であった。彼は,マハーラーシュトラ州の出身であり,自らの意志でガンディー暗殺を実行したのである。その死は,独立インドの汚点として注目される事件であり,大きな衝撃をインドの内外にもたらした。

(II)インディラ=ガンディーの暗殺は,1984年10月31日に同首相官邸で二人のシク教徒警備兵によりなされた。その暗殺の背景には,ガンディー首相の強権的な体質とシク教徒弾圧があった。インディラ=ガンディーは,インドの初代首相ジャワーハルラール=ネルー(1889〜1964)の一人娘であり,その父が妻をなくしてから,父の秘書役を果たしてきた。イギリス留学中に知りあった拝火教徒のフィーローズ=ガンディーと結婚して,二子,つまりラージーヴ=ガンディーとサンジャイ=ガンディーをもうけた。インディラは,すでに1950年代に政界入りをし,1960年代,父の没後,連邦内閣の閣僚となり,1966年には初の女性首相となった。インディラ=ガンディーの政治家としての特徴は,その父が理想主義的な政治家であったのと対照的に,強引に力の存在を押しつけるところにあった。非常事態宣言期(1975〜77)には,苛烈な人権弾圧と言論弾圧を試み,一時期,在野していた。1980年,政界への復帰を遂げてからも,その押え込み型政治は変わらず,中央集権政治を強行し,州自治を危機に陥れた。シク教徒が集中して住むパンジャーブ州では“緑の革命”で,農業生産には著しいものがあったが,貧富の対立は解消されず,工業化方針は棚上げにされていて,全体としてシク教徒間に不満が蓄積されていた。不満分子がたてこもるシク教総本山黄金寺院に,インド政府軍が投入されたのは1984年6月初めのことであった。この弾圧事件は多少なりとも,ガンディー政権との友好関係を保とうとしていたシク社会全体に計り知れない打撃を与えた。この首相暗殺は,ひとえに会議派政権の強権政治への一つの回答であったのであり,単にヒンドゥ教徒対シク教徒のあいだの対立の結果のみではなかった。1984年末の第8回総選挙では,その長男ラージーヴ=ガンディー新首相の率いるインド国民会議派が大勝したが,新政権の前途は多難である。