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●ガンディー,M.

アジア インド AD1869 

 1869〜1948 マハトマー=ガンディーとして知られているインド民族運動の指導者である。単に政治活動を行っただけでなく,人間の生き方・工業文明の将来・不可触民の解放などにも深い洞察を行った,20世紀の偉大な思想家である。

【弁護士として活動】西インドの小さな藩王国ポールバンダルの宰相の長男として生まれる。13歳で同じ町の商人の娘であるカストゥールバと結婚する。18歳で父親となり,翌年妻子を残してイギリスに留学する。3年間ロンドンで学び弁護士試験(バリスター)に合格して帰国する。南アフリカの企業に招かれ,1893年に渡航する。ダーバンからプレトリアへ向かう鉄道の一等車に乗り旅行中,白人による不当な人種差別を体験し,差別撤廃の運動を始める。20年間の南アフリカ滞在中に,ヒンドゥー教の聖典の一つであるバーガワッドギータを読んだり,トルストイやラスキンの影響を受け,生活様式を変える試みをする。ブラフマチャーリヤとして妻との性的な関係をやめる宣言をし,家族や友人とともにトルストイ農場と呼ぶ自給的な集団農場を始める。在住インド人に身分登録証の常時携行義務を課している法律を廃止させるため,非暴力不服従と呼ぶ非合法闘争を始め,1914年に同法の廃案を達成する。

【インドでの独立運動】1914年にインドに帰国し大歓迎を受ける。3年間,広く旅行し社会問題を調査したのち,北ビハールのチャンパーランで藍生産に従事する小作農民を組織し,地主の収奪から守る闘争を指導する。1919年に弾圧を強化するローラット法に反対して,植民地政府のすべての公務に非協力運動を始め,商店やタクシーなどの同調を得て,一切の行政をまひさせてしまう。このとき以来,ガンディーは民族運動の指導的な地位につく。サティヤグラハとして知られるガンディーの運動の原理は,従来の国民会議派による知識人中心の独立運動と性格を異にし,非暴力を強調するがけっして受動的ではなく,積極的に植民地法を犯す非合法闘争である。彼が運動に加わることによって,インドの独立闘争は農民・労働者を含む広範な大衆を動員することができ,イギリスの植民地行政を根底からゆるがせるものとなった。

【農村中心の経済思想】ガンディーは植民地政府による投獄と自己の決断による断食を繰り返しながら,独立運動の幅を広げ,インド社会の最下層民まで参加できる条件をつくってゆく。そのかたわら,彼が「建設的プログラム」と呼ぶ,農村経済の再建を進める諸活動を始めている。輸入品や工場制機械工業の産物に依存することなく,自らチャルカという紡車をまわし,布を織り,日常生活に必要なものを農村社会でつくりだせるよう,さまざまな試みをつづけるのである。そして,農村社会にみられる不可触民への根強い差別をとりのぞくことに力をつくし,これらの被抑圧民をハリジャン(神の子)と呼び,その生活条件の向上に努める。1931年にロンドンで開かれた円卓会議に出席するが,その結論に失望し,再び不服従運動を始める。不可触民に分離選挙区を設けようとする英首相案に抗議し,インド社会への統合を主張する。プーナ協定による妥協のあと,ガンディーは「ハリジャン」という週刊誌を発刊し,終生にわたってその編集をつづける。

【印パ分離の悲劇と暗殺】1942年8月,イギリス支配が「インドを立ち去る」ことを求め,大規模な大衆闘争を展開する。英印軍内の反乱もつづき政治的独立の達成はほぼ確実となるが,パキスタン独立に反対し,統一インドの独立をめざして,農村の行脚をつづける。しかし,イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の対立は激化する一方であり,印パの分離独立が不可避となる。1947年8月のインド独立に際して,いかなる公職に就くことも拒否したガンディーは,翌年1月マハーラーシュトラのブラーフマンによって暗殺された。

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