●ガンダーラ
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インド亜大陸の西北部,パキスタンの北部ペシャワール県にあたり,西のアフガニスタン,東のインド,ジャンム=カシミール州に隣接する。初め,プシュカラーヴァティーが都であり,2世紀以後プルシャプラ(布路沙布羅−−丈天城,現在のペシャワール)が都となり,そこを中心に,インダス河とカーブル川の合流する地域をさすのが最も狭義で,次に,インダス東方のタクシャシラー(咀叉始羅,現在のタクシラ)を含めるとし,さらに,カシミールとアフガニスタンの東部を含めるとする説がある。カシミールのみを除外する場合もある。第二説が有力。インド=アーリア人が,パンジャーブ地方,すなわち五河地方へ定住する以前に拠っていた地の一つであり,大部分が移住後も一部は残留した。リグ=ヴェーダにも,この名があげられている。前5〜4世紀には,ペルシア帝国が侵入した。インド内部から,北カーブル渓谷をへてバクトリアへいたる要衝の地であり,また一方,西方および西北方から,バクトリア・ギリシア・シリア・シャカ族・パルティア人・クシャーナ族が紀元前後に次々とこの地に侵入,また通過して東進したり,この地で覇権争いが展開されたりした。クシャーナ王朝では,中心地および都が,ガンダーラにあった。
ガンダーラがこのような地理的位置にある関係上,人種・思想・宗教・文化・芸術の交流点として重要である。
美術に関しては,アカイメネス・ペルシアの影響が初めにあったが,アレクサンドロス大王遠征(前327〜前325)によって,ギリシアの植民地化と,アショーカ王(前3世紀)以後マウリヤ王朝とともに仏教および仏教文化が入ることによって,ギリシア・仏教複合文化がしだいに展開していく基盤が,前1世紀にはでき上がった。それには,インド中央部の伝統美術の影響も加わっている。後1世紀は本格的になり,後2〜3世紀を頂点として,かなり長いあいだ,ガンダーラ仏教美術は栄えた。とくにカニシカ王は,仏教を信奉し,仏教と仏教美術,学問を保護し,首都プルシャプラに仏教寺院・塔を建立し,ギリシア人の芸術家を呼びよせ,働かせている。ギリシアの写実的様式および技法で,仏教のテーマやモチーフを表現している。ガンダーラの彫刻は建造物を荘厳するためにつくられた。また仏教建築の装飾にコリント式列柱やギリシア風の文様がつくられている。前年は,片岩・千枚岩が多く用いられ,後年は塑像が多い。
仏教図を浮彫にしたが,釈迦を中心的存在として際立たせるようにした。また一方,釈迦を仏伝図から切り離した単独の仏像がつくられるようになった。鼻・額が高く,唇が薄く,髪は波打ち,西洋風の顔立ちの仏像である。仏教では,元来,非偶像・非表現を旨としたが,しだいに控えた表現の仏像が出現し,ガンダーラの仏像では,自然な人間らしい仏像が特徴である。法衣の多く厚い襞にギリシア風の影響がみられ,また,あるものは,ローマ彫刻のトーガToga着衣法がみられる。
絵画も盛んであったと思われるがすべて消えて残っていない。法顕の『仏国記』のなかで,ガンダーラの絵画のことが言及されている。
建築では,寺院と塔が大いに建てられ,あらゆるところに伽藍の廃墟がある。文献で有名なのは,カニシカ大塔である。
仏像崇拝が以後盛んになった大きな原因の一つが,ガンダーラ仏像であるといわれる。この仏像彫刻の影響は,中央アジア・中国の方にも及んでいる。
しかし,クシャーナ朝の衰退とともに,寺院・塔などが破壊され,造仏活動も廃絶の状態となり,その後,この地の文化的繁栄はみられなかった。
〔参考文献〕町田甲一『東洋美術史要説上』1955,吉川弘文館
山本達郎『インド史』1960,山川出版
高田修『静かなるインド』1981,新潮社