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●貫高 かんだか

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 中世後期において土地面積を表示するために使われた単位で,本来は金銭の単位である貫文(1貫=1,000文)からきている。大化の改新以後,土地の計量表示には町段歩制が用いられていたが,中世に入るころには束高・薪高・石高などの収穫量による表示も行われるようになっていた。それと同時に畑については何貫という税額で表すことも行われ,中世後期になると,田畑を合わせて貫文で表示する方法として確立した。この好例となるのは戦国大名の家臣に対する知行地宛行(ちぎょうちあておこない)であり,この場合,知行地を田地・畑地・宅地などに分けずに単に何貫文の土地を宛行うという具合に用いられた。

 貫高制の成立した経緯についてはいろいろにいわれているが,一つには貨幣流通経済の発展に伴っての種々の動きの結果だとする見方がある。鎌倉時代には在家役などの雑公事は,たとえば武田氏において蕨一把は5文,薪一駄は8文というように金銭に換算して収納されるようになっていたし,同じころ,替銭屋を通じて,遠方の荘園年貢米を割符によって送付することも始められている。こうした流れのなかで年貢,さらには田畑が金銭的な視点からとらえ直されることは自然のなりゆきといえるし,また,守護段銭(たんせん)を賦課する際の便宜のために,領主が貫高を恣意的に決定したとの見方もある。しかし,このころの年貢は,土地状態などによって1区画ごとに細かく決められた年貢率によって算出されていたため,年貢と土地面積は対応しておらず,貫高によって表される土地の大きさを町段歩制に換算するというわけにはいかなかった。そうしたなかで戦国大名は貫高制と町段歩制の内容を合致させようと努力し,やがて田畑なら300〜500文,畑地で150〜200文が標準貫文として表されるようになった。これらは田畑の評価単位から村高や所領の高なども表す単位として機能するようになり,こうして土地の計量単位として機能するようになったものをとくに貫高と呼び,それ以前のものを銭納の際の年貢高を表す分銭高と呼んでこれと区別することもある。1974年(寛政6)に成立した『地方凡例録』には石高の項とともに貫高の項があるが,そこでは限定された意味での貫高について書かれ,その成立については軍役割当の制(たとえば田地1,000坪を1貫とし,6貫の地に対して軍役1騎を出させることとする)が始まりであるとされているが,この,軍役割当のための貫高制は戦国大名が軍事力を編成・確保するのに必要な手段であった。また,室町時代に明の永楽銭が多く渡来し,国内に流布されたことから,とくに東国では貫高が永楽銭に換算されることも行われ,これを永高と呼んだ。

 貫高を広く採用したとして特筆されるのは関東の北条氏である。北条氏領では家臣宛の知行高から百姓の所有する土地まで,広く貫高によって示されるようになっていたが,西国の毛利氏などでは町段歩制と貫高・石高が混用されており,さらに畿内を中心とした旧来の荘園領主たちはほとんど貫高制を採用することがなかった。実際に貫高制を重く用いていたのはおもに関東・東北地方の戦国領主であるが,貫高制はそのまま年貢の銭納を意味していたわけでもない。伊達領などでは実際に年貢の貨幣納が実行されていたが,北条氏領においてさえ,年貢の米納や籾納が許されていた例はしばしば見出される。以上みてきたように,貫高制の用いられ方にはさまざまな形があるが,とくに,戦国大名の本質を表すものとしてとらえたときの貫高制の機能を,軍事編成・流通統制・農民支配の3点に集約される。これらの機能は本来,荘園領主に対する徴税の完遂のために用いられたともされているが,結果的には守護・地頭領主の直接的・一円的な収集関係が確立され,新興大名が生まれる母胎となっていった。

 やがて太閤検地が始まると,統一された尺度での町段歩の測量が行われ,石高制が用いられて貫高制は姿を消した。ただし,仙台藩などのように貫高制が変質しながらも残された例は少なくない。