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●鑑真 がんじん

アジア 中華人民共和国 AD688 唐

688〜763(持統2〜天平宝字7)唐の揚州江陽県の生まれで、14歳のとき出家。当時律宗が盛んで、鑑真も南山律宗の祖道宣の弟子、道岸について菩薩戒を受け、ついで恒景より具足戒を受け、高僧を歴訪して研鑽を重ねた。742年(天宝1)、揚州の大明寺に住し、律を講ずること70遍、人を度すること4万余という彼の声望を聞いた日本の入唐僧、榮叡・普照の二人は、鑑真を日本に迎えて正しい仏法を伝えようと願い、彼もまたその熱意に応じて渡海を決意した。しかし彼の徳望を惜しむ皇帝の反対、暴風・盗賊などの難にあい5度にわたり失敗し、ついに潮風に侵されて失明した。第6回目は密かに遣唐使の船に便乗し、753年(天平勝宝5)12月、発意してより11年目にして九州に到着した。東大寺大仏開眼の次の年である。ときに鑑真67歳。翌年正月、太宰府から難波に着き、奈良に入った。勅命により東大寺に居を定め、戒壇建立と授戒伝律を一任された。このとき登壇して、菩薩戒を授かった者は天皇・皇后・皇太子以下、沙弥440余人。ついで戒壇院が建立され、その後下野の薬師寺と太宰府の観世音寺にも戒壇が設けられ、天下の三戒壇と称し、僧尼となる者は必ず登壇受戒することが定められた。鑑真は来朝後、直ちに少僧都に任ぜられ、僧尼を統括する僧綱の一員として戒律の普及と寺院の監督の任に就き、756年大僧都に、760年大僧正に任ぜられたが、758年(天平宝字2)“大和上”の号を賜り、政治によって老を煩すことを慮って僧綱の任を停め、諸寺の僧尼を集めて戒律を学ばしめたと記録されている。ついで新田部親王の旧宅を賜り戒院とした。唐招提寺の創建である。763年5月入寂。後人“過海大師”と敬称。その春弟子の忍基がつくった鑑真大和上像(国宝)が今日に伝わっている。松尾芭蕉が〈若葉しておん眼の雫ぬぐはばや〉と詠じた像である。鑑真は唐ですでに一流の高僧であり、仏舎利、律・天台の経典、王羲子の書、建築・彫刻・薬学など幅広い知識をもたらし、日本文化に大きな影響を与えた。その生涯を伝えるものに淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』(通称『東征伝』)や、その詞(ことば)による『東征絵伝』がある。

〔参考文献〕平岡・中井編『日本名僧論集1 行基・鑑真』1942、吉川弘文館

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