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●漢城 かんじょう

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 唐は668年に高句麗を滅ぼすと,平壤に安東都護府を置いたが,亡国の再建を企てて水臨城の鉗牟岑(剣牟岑)は高句麗遺民を集めて蜂起し,翌年の670年初めには平壤を占領した。新羅は牟岑を援助しようとして2万の軍隊を送った。しかし唐の大軍が来攻するや牟岑らは敗れて大同江を渡り今の黄海道で再建を図った。そして漢城に安勝を迎えて君としたことが『三国史記』(文武王紀)に見えている。安勝とは高句麗最後の宝蔵王の庶子とか孫,あるいは名族の渕浄土の子とも伝えられており,彼は高句麗滅亡直後の669年初めに400戸の民を率いて新羅に亡命した人物である。安勝の迎えられた漢城は今の載寧の地とみられる。高句麗時代には息城郡が置かれており,また漢城・漢忽息忽(忽=コルは城を表す)とも書かれた。新羅の景徳王代に重盤郡と改名され,さらに高麗の初めに安州に,高宗のときに載寧に改められて今日に及んでいる。

〔参考文献〕池内宏「高句麗滅亡後の遺民の叛乱及び新羅との関係」『満鮮史研究』上世第2冊

村上四男「新羅国と報徳王安勝の小高句麗国」『朝鮮古代史研究』