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●勘合貿易 かんごうぼうえき

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 室町時代,正しい貿易船であることを証明する勘合を所持した遣明船によって行われた貿易形態。本来,中国では一定の使命をもつ使者が正しい使者であることを証明するため割符を発行していた。唐のころから勘合と呼ばれ,国内での軍事上の使者に用いられた。それが明代に入ると外国関係にも適用され,日本の船に対してのみならず15国にも及んでいる。その形式は中国王朝に対する朝貢貿易を円滑に行うため,各国王の上表文に加えて入貢査証としての意味をもたせた勘合が支給されるようになった。明においては,自国の商船が自由に外国に渡航することは禁じられていた。したがって,日本からの船による貿易は重要な意味をもっていたが,1400年前後倭寇などの民間船団が活躍していたため,朝貢船であることを明らかに区別する必要が生じていた。勘合の運用の方法は,まず「日本」の2字を分けて,日字壱号から百号まで墨印を押す。同様に本字も百号まで100通作り,それを中央から二つに切り,片側が勘合となり,残り半分を綴じて一冊とし底簿とする。貿易の管理をする寧波(にんぽー)市舶司には,本字底簿一冊が保管され,本字勘合100枚と日字底簿一冊とが日本側に支給された。この勘合は明朝皇帝の改元ごとに,旧勘合と交換に新勘合が発給されることになっていた。室町時代のわが国に対しては,永楽・宣徳・景泰・成化・弘治・正徳の6度にわたって発行されている。その使用方法は,一船ごとに本字勘合1枚ずつ持参することになっており,その裏面には進貢貨物の内容や数量,乗船者の人数などが記されていた。このような勘合貿易が成立するにあたり,足利義満は1401年(応永8)僧の祖阿・博多商人の肥富(こいずみ)を明に派遣して国交を開いた。明からの国書には義満を「日本国王源道義」(道義は義満の法号)と記してあり,明皇帝は日本の服属を認める象徴として明の暦を与えた。それに対して義満は「日本国王臣源」と署名した上表文を皇帝に送っている。これは明らかに勘合貿易が日本国王の明の皇帝への朝貢と,それに対する返礼という従属的な形式をとって行われたことを示している。その後,4代将軍義持はこの屈辱的な朝貢形式に反対して貿易を中止した。しかし貿易商人や中国側の強い要望と幕府財政の窮乏を救う目的もあって,6代将軍義教のときに再開された。1451年(宝徳3)の遣船後,10年に1回船3隻,人員300人と定めたが,1547年(天文16)まで合計17回,80余隻の貿易船が渡明した。この形式の貿易は,滞在費・運搬費などすべて明側が負担したために日本側の利益は大きかった。そして朝貢船であるため,日本から馬・太刀・硫黄・めのう・金屏風・扇・鎗(やり)などを進貢し,皇帝からは白金・絹織物・銅銭などを賜った。しかし,それ以外にも「付搭物」と呼ばれる朝貢品以外の貨物が認められ,幕府や遣明船経営の守護大名・大寺院・大商人たちが積み込んだ貨物があった。この付搭物はそのまま北京に送られ,そこで価格が決められて取引された。その品目は蘇木(そぼく)・銅・硫黄・刀剣などが中心で,それに対して銅銭・絹・布が交換された。また寧波や北京では官許された明の特権的商人が遣明船の貨物を販売し,購入することができる委託制度,つまり私貿易も認められていた。私貿易によって日本に輸入された貨物は,生糸・絹織物・糸綿・布・薬種・砂糖・陶磁器・書籍・書画・調度品などが多かった。この貿易での利益率は,持ち帰る貨物の総額が持ち出した額の約10倍に売れたといわれるほどで,純益は一万貫を下らなかったと考えられる。とくにこの貿易で大量にもたらされた銅銭は,日本の貨幣流通に大きな影響を与えたことは注目される。やがて15世紀後半,室町幕府の衰退とともに貿易の実権は堺の商人と結んだ細川氏,博多商人と結んだ大内氏の手に移り,その主導権争いがつづき,ついに大内氏の独占となったが,16世紀半ば大内氏が滅びるや勘合貿易は断絶した。かくて再び倭寇の活動が活発化するにいたった。

〔参考文献〕田中健夫『倭寇と勘合貿易』(日本歴史新書)

小葉田淳『中世日支通交貿易史の研究』

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