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●桓玄 かんげん

アジア 中華人民共和国 AD369 

 369〜404(太和4〜元興3)東晋の武将。字は敬道。大司馬桓温の庶子。のちに帝位纂奪を企てて誅される。桓温に寵愛されて後嗣となり,西府軍団を継承。若いころから博学で文学に通じたが,才をたのんで人にきらわれ,朝廷も警戒して,なかなか用いなかった。太元(376〜396)の末,義興太守に任ぜられたが,不満をもって官を捨て,帰郷した。ときに朝廷では司馬道子の側近,王国宝が専権を振るっており,その勢力を挫こうとした桓玄は397年(隆安1)殷仲堪とともに王恭を奉じて王国宝を討った。さらに道子の世子元顕を討とうとしたが,北府軍団の主帥劉牢之の裏切りに会って失敗し,根拠地の荊州に戻った。荊州で勢力を回復したのち,湖北・湖南方面の盟主となり,399年には殷仲堪を討ち,都督荊・司・雍・秦・梁・益・寧七州・後将軍・荊州刺史に任ぜられた。401年には孫恩の乱を口実に建康に入り,元顕・劉牢之を倒して北府軍団を支配下に収めた。一族を次々に朝廷の要職につけ,実権を完全に手中にしたのち,403年(元興2)末には安帝を廃して自ら帝位につき,国号を楚,年号を永始と改めた。しかし,無方針の政治を行い,また暴虐な振る舞いが多かったため朝野は失望し,劉裕を中心とする義軍がおこった(404)。敗れた桓玄は四川に逃れる途上,枚回洲(ばいかいしゆう)で益州督護馮遷に殺された。桓玄の皇帝在位は数カ月で潰えたが,東晋政権は実質的に崩壊へとむかい,のち,劉裕による宋朝創建の契機ともなったのである。