●環境教育 かんきょうきょういく
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環境の概念は,教育においては果たしてどのようにつかわれているのであろうか,という疑問をもつのは,単に私一人ではないであろうと思われるのである。しかしながら,それは,自然科学が対象としているところの,いわゆる自然的環境ばかりをさしているのでないことははっきりしている。そして,人的環境すなわち人の社会的環境において表れるもののほかに,経済・政治ならぴに道徳などを内容としてもっている文化的な環境なども含むところの,ほんとうに総合的な環境を意味するものでなくてはならないと思われるのである。歴史的にこの問題をさぐってみると,昔からの“教育”を論ずる人々のほとんどは,なんらかの形で環境について言及しており,そうではない教育論者は,きわめて少ない。しかし,環境そのものに基盤を置く心理学,あるいは教育学的な研究が,第一次世界大戦以降において,ドイツを第一として出現しはじめた。とくに社会研究および児童の家庭環境についての研究が盛んに行われるようになった。また,貧困生活および富裕生活,農村および都市などに関する問題が,おもに研究されるようになった。もちろん児童に関する学級生活についての研究なども,これらのなかに含まれる問題である。これら一つ一つの問題を総合的にみて,科学的考察の対象に環境全体をするのは,1919年(大正8)シュテルンの『人格学』のなかの環境論,1924年(大正13)ヘルパハの『環境の心理学』,1928年(昭和3)アルゲランダーの『精神発達に対する環境の影響』,1926年(大正15)スラヴィンスキーの『環境教育学』などがある。今まで述べたように,興味深い環境という対象が,独自の教育学的な立場から研究されるようになって,ここに教育的環境学が成立した。ペダゴギッシェ=ミリウクンデという名称は,おもにブーゼマンおよびボップがよくつかったことばである。ブーゼマンは,『教育的環境学』(1927年,昭和2),ボップは,『教育的環境』(1928年,昭和3)という主著をそれぞれ著述している。この二つは,ともに環境についての教育学的知識の体系であるとともに,教育学の未開地を開いたと評価できる。このほか,オルセンおよびクックなどによってみられるアメリカにおける教育社会学は,その内容からみると,教育的環境研究の一種と評価できる。【素質と環境】環境および人間の素質の果たしてどちらが,人格を形成する上でより有力な要素であるだろうかということは,これまでにおいても,環境説および遺伝説として,鋭く対立してきたところの問題である,ということができるであろう。しかしながら,人間のもっているところの,それぞれ個人個人の特性のよってきたるところのものを単純に割り切って,環境あるいは素質のどちらかから由来するという決定を下そうとすることは,そう簡単に認められていないのである。そのうえ,人間がいろいろなことに対応するところの感受性と,環境の因子は結合しているのであるからして,機械的なものとして,環境と人間の関係は存在しているのではなく,やはり精神的および有機的なものである。ウィリアム=シュテルンは,いままで述べたところの,このような見地から考えて,ウィリアム=シュテルンが確信をもって堂々と述べたところの輻(ふく)合説のなかにおいて,外界因子(環境)および内的因子(素質)という二つの因子の結合をもって,やはり,合目的および統一的な結果にたどりつくための結合である,といったふうに考えるとともに結論づけたのである。このようにして,永いあいだ学者および一般人のあいだにおいて,論争を重ねてきたところの,きわめて難しいと思われてきた問題も,せんじつめるならば,やはり,〈素質と環境〉という表現に置き換えられることになったのである。たとえばある個人が,たまたまある集団のなかに置かれた場合,いわゆる遺伝の法則に従って,ある特徴のおこるところの度数関係が,はっきりとみられるようなときには,なんといっても,それは,その個人が先天的にもっているところの素質の現れであると考えることができるものと思われる。一般的に,感情生活および衝動的な生活をする場合においては,なんといっても素質的なものが,強力かつ鮮明に現れがちであるのに対し,人々が仮に知的生活のようなものを行う場合には,人間はどうしても,外界因子であるところの,環境の支配を受けやすいという点が注目される。
【人と環境との関係に関する一考察】環境と人との関係は,その基本的な類型として,環境影響および環境体験の二つに分けることができる。まず環境影響について述べると,これは,環境および人が因果的な関係にあるときである。二重の性質をもっているところの,この因果的な関係は,第1における場合は,環境が人の上に影響を及ぼすのに対して,第2の場合においては,人が環境の上に影響を与えるのである。内容の点から「環境影響」を,[1]順応,[2]環境障害,[3]環境改善,の三つの形式に分けることができる。環境体験は,環境と人間とが,超越的な関係において存在するときであり,人は傍観者の位置から踏み出して,直接体験的に環境と結びつき,一方,環境それ自身は,人間に対立した存在として体験されるという立場にとどまっている。体験はそのもとの形においては,刺激にもとづいた環境の経験であり,各種の段階をもっている。
【環境における類型】環境を三つに分けるならば,それは第lには自然的な環境,第2には社会的環境,第3には文化的な環境,などに分けることもできるであろう。しかしながら,教育という視点に立つならば,児童および青少年の環境を,家庭・都市ならびに農村,および貧困といった類型的に分類するほうが,より実際的であるものと思われる。[1]家庭的な環境は,家族は,精神的に,生活共同社会の1単位を構成している。児童は,こうした社会のなかで成長し,社会的な感情を体験する。[2]農村環境は,農業生産をみながら児童は成長し,これは直観教授として有効である。[3]大都市環境は,都会人の性格的な特徴を,大都市の児童は受けやすい。たとえば利口だが,尊敬の念に乏しく,物事に興味を抱くとともに移り気の傾向がある。[4]貧困児童の環境は,貧困な児童は今日においては,数が減じてきているが,勤勉・機敏・実行力などが特徴である。
【環境の調査】環境的な見地にもとづいて,児童生徒を対象として調査を行うことは,なんといってもやはり,ほんとうに重大な意味をもっているということを,たとえ誰であろうと否定することはできない。しかし,個人個人の児童生徒に関して,その環境を深く正確に把握するとともに理解するということは,きわめて難しい事柄である,ということができるであろう。たとえば,社会的あるいは経済的な環境を対象として,もしもわれわれが調査を行うためには,父兄の収入および児童数ならびに職業などを調査するということは一般的であるが,これを完全にするためには,住宅の大きさや畳数まで調査の対象としなければならない。児童生徒の環境に関する調査結果は,全体としての環境の特徴に注目するとともに,これらを量的に処理するよりも,むしろ類型的に処理する作業を行って,その成果を上げるほうが好ましい。