●河原者 かわらもの
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中世においては、河原に居住し、種々の生業に従事したものをさすが、近世には、歌舞伎役者など芸能関係の人々をとくに意味するようになる。古代・中世の河原は、現在のそれより広く、しかも農業に適さず無税地であったため、各地から集まった逃亡農民や飢民が居住し、川の流れや河原そのものを利用して生活を営んだ。とくに、京都・鴨川の河原は、これらの人々の活動の舞台となった。ところで、こうした河原に人々が住みつくようになったのがいつごろからか不明であるが、『左経記』長和5年(1016)正月の条に、〈牛一頭令労飼之間、昨慮外斃之、河原人等来向、剥取件牛之間云々〉の記事があり、このころすでに、斃牛馬を処理し皮革を扱う「河原人」のいることが知られる。皮なめしには、大量の水と皮干し場が必要なため、河原を利用したものであろう。しかし、これは河原者の職業の一部にすぎず、寺社や貴族の行う工事・普請などには、さまざまな労働力供給源として利用された。それらは、庭園の築造修理や建築の下働き清掃や運搬など、いっさいの雑用を含んでおり、河原者は、こうした雑業者集団としての性格を強めていった。彼らのなかには、寺社や貴族に直接隷属するものも現れ、また、それぞれの職業において勝れた才能を発揮する人々も登場する。『蔭涼軒日録』の1491年(延徳3)10月の条には〈河原者三人鑿小井之底、塗竈安釜、珍重云々〉の記事があり、専門的な井戸掘りの技術をもった職人も現れる。その他、石組み・屋根茸き・壁塗り・かまど塗りなどがあり、とくに東山時代、「泉石の妙手」として、8代将軍義政に重く用いられた善阿弥は、慈照寺銀閣の作庭で知られ、その築庭技術は、義政の高く評価するところとなった。また、伏見城の築庭や盆栽・庭石の宰配を行った人々も、当時の高名な山水河原者であった。河原者はこうした土木・建築以外にも、川の流れを利用した染色業や運送業にも従事し、馬借や車借とも深い関係があるといわれている。このように、河原者はさまざまな職業に従事し、土木・建築・商工業の各分野に重要な役割を果たすが、その居住地である河原は、いわば社会外の空間であり、堤上と河原のあいだには厳然たる差別が存在したといわれている。しかも、たび重なる大水は、その住居をも押し流し、河原は多くの死体で埋ったという。飢饉に際しては、河原は死骸の捨て場として利用された。1461年(寛正2)の大飢饉の際、京都では2カ月足らずのうちに8万2千人が死んだといわれ、四条の橋から鴨川の上流を見た『碧山日録』の筆者は、〈流屍無数、如塊石磊落、流水壅塞、其腐鼻不可当也〉と記録している。こうしたことが、河原者に対する卑賤観を助長したであろうことは疑うことができない。これが、河原者に対して、犯人の追捕、囚人の監視・護送、刑の執行などを義務労役として課す契機となる。死刑の執行やさらし刑は、古くから河原で行われるのが通例で、河原者が使役されていくうちに、しだいに義務化したものと想像される。『蔭涼軒日録』の長亨2年(1488)8月11日の記事には、〈使河原者刎頭〉とある。その他、河原者には、生活の糧を求めて、遊芸に従事するものも多く、祭文・説教節・浄瑠璃・三味線・蜘蛛舞・からくり・見世物など多岐にわたっている。ここから、近世の人形浄瑠璃や歌舞伎が生みだされてくる。河原では、南北朝以来、田楽・猿楽・角力などの勧進興行がたびたび催され、広い河原には舞台や桟敷が構えられ、その作業要員としても河原者が使役されたため、これらの興行に対する河原者の発言力がしだいに増し、諸興行の支配権が生まれる。これが、近世における櫓銭などの起源となる。近世には、こうした諸芸能に従事する人々を、主として河原者と呼ぶようになるが、歌舞伎役者が1匹2匹と数えられたといわれるように、近世においても賤視の対象とされ、士農工商の外の身分として位置づけられた。
〔参考文献〕部落解放研究所編『原田伴彦 部落問題選集』1984、解放出版社
盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』1974、雄山閣