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●かわ 川

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地表と地下水面との接点から、湧き出る水を集めて流れる水路。河川ともいう。水路は、湖や海に流れ込むまでに、いくつかが合わさったり、あるいは、いくつもに分流するものがある。日本では、河と川との区別は厳密ではないが、あえて区別するなら、船の通行できるほどの大きさのものを河という。外国では、大きさにより、河川・細流溝などと区別する。日本のカワということばは、もともと、湧き水・泉など水の供給源を総称的に意味したものであり、いわゆる川は、“流れ川”と呼んで区別した。中国地方、とくに瀬戸内方面および九州や南西諸島では、カワといえば井戸のことである。農業用水や日用水を得るために、川を堰(せ)き止めたところがイであり、その水を汲む場所が「イ・ド(井処)」なのである。水路には常時流水があるとは限らない。年間数回しか流水のないアフリカ北部などの乾燥地帯では、流水が地中にしみ込んで消滅してしまうものを内陸河川と呼び、降水時だけ流水をみるものをワジと呼んでいる。河川が山間地から平地に流下する場所では、自然に砂礫が扇状に堆積し、その間隙に流水が浸透して伏流し水無川(末無川)となる。河川に流水を供給する範囲が流域で、二つの河川流域の境界をなすところを分水界(分水嶺)という。

【河川の営力と流域の地形】河川流水の営力には、浸食・運搬・堆積の3作用がみられる。この3作用が均衡を保っている河川を平衡河川といい、日本には存在しないがヨーロッパには、ほぼそれに近いものがある。河川の不断の流水は浸食を起こし、砂礫類の物質を下流に運搬しながら成長を続ける。平野部の河川で洪水を繰り返すうちに、水深が減じ河道の両側に土砂を堤防状に堆積する現象がみられる。これを自然堤防という。一方また、河川の両側に高く頑強な堤防を築くと、上流からの砂礫など運搬物が流下の許容量を越えて、河道内に堆積する。これが繰り返されることにより、河床が両側の平地面より高くなるものを天井川という。日本の中央部・朝鮮半島・華北平原、およびメキシコの一部にみられる。傾斜の非常に緩い平地部では、地質の強弱に応じ流水の遠心力が加わり、川道が蛇の曲りくねるような流路をとることが多い。ひとたびこのような状態が発生すると凹岸部に偏流して浸食を増し、凸岸部には土砂の堆積がつづく。やがて、くびれた部分がつながって旧河道がとり残されると、その部分は河跡湖(三日月湖・牛角湖ともいう)となって残る。日本では、火山の多い地帯を流れる河川に、火山や温泉から混入する硫酸や塩酸が酸性を強め、酸川(すがわ)と呼ばれるものがある。中国の黄河は、多量の黄土を流して黄濁するのでその名で呼ばれ、放流する海は黄海と名づけられた。

【日本の河川の特色】四周環海の日本列島は、その自然環境からしてヨーロッパ大陸にみられるような国際河川とはいちじるしく趣を異にしている。日本は東北から西南にかけて幅狭く伸びた島国で、その中央を背梁山脈が縦走する。そして東アジアのモンスーンが豊富な降水をもたらす関係上、川の多くはこれらの山脈を分水界として、一方は太平洋に他方は日本海に注ぐ。通過する平野はわずかだから、いきおい上・中流は急流激瑞(げきたん)を随所に展開し、舟運の便は大陸諸国に比べると劣る。明治初期、日本に招かれたオランダの治水技師デレーケは、立山から日本海に流れ落ちる常願寺川をみて、〈これは川ではない。滝だ〉と叫んだほど、ヨーロッパ平原の河川とは大きな違いである。島国河川網を張りめぐらす日本の河川は、単位面積当たりの密度が濃い。したがって、世界地誌の作成には、最も細かく地域区分する配慮が必要とされるという。それほどに日本の地勢の起伏を微細にしたのは、一つに大小さまざまな多くの河川活動が、大地への働きかけを活発に行い、またそれとの関連で、流域住民の土地利用の複雑さが結果として現れているからであり、河川流域ごとのバラエティの多彩さをもたらしている。また、河水の多くは軟水で飲用にも浴用にも適している。まさに日本は“川の国”というにふさわしく、川水の清澄さは日本の自然の特色といえる。

【河川の機能】“文化の母なる川”という約言が、人類文化史につきまとうことが示すように、河川は古今東西を通じて人間生活と密接な関係を保ちつづけてきた。プラスに活用される一方では、洪水などの禍をもたらすこともしばしばであるが、その禍を福に転ずる必要が多くの発明と学問の発達に導くことにもなった。人間生活ととり結ぶ河川の機能は枚挙に暇ないほどであるが、以下、主要な事項について項目立てして掲げてみよう。[1]天然の排水路:天然の降水は、地球上の水の循環システムの一過程であり、地域によりその多寡の差が大きいものの、大局的には、河川は天然の排水路としての役割を果たす。日本では年間平均2,000ミリ内外の降雨があるのに対し、ほぼ同緯度の北アメリカ大陸の東岸ニューイングランド地方や西ドイツ南部では約半分の量しか雨が降らない。ヨーロッパの多くの都市ではそれ以下である。さらに極端な例では、モンゴル平原はひどく雨が少ないのに、草原に湖沼や河川がみられるのは、その大半の水が地下から湧き出すもので、飲用に不適な硬水である。このように比較してみると、日本で降水量の多いことが河川網の密度に深くかかわっていることがわかる。『利根川図志』に、〈此の川の能く大を為すは、細流を択ばざるを以てなりき〉とあるのは、天然の排水路としての川なるものの性格をよくいい当てているものである。[2]飲料水と水道:日本の川水の多くは、最近までそのまま飲料水として利用された。“川の水は三尺流れれば水神さまが清めてくれる”という信仰は全国的に分布するほど、清澄な川水に恵まれてきた。このような国土は、世界的にはむしろ稀な例である。日本と対照的な一例はドイツであり、ドイツ人にとっては、原則として川の水は飲まないものという生活慣習が先入観とさえなって、心に深く根ざしているという。彼らにとって飲料水は地下水に限るのである。西ドイツ・スイス・オーストリア3国に囲まれ、ライン川の上流に位置するボーデン湖は、琵琶湖よりやや小さめの湖である。湖岸にはとくに大きな都市や工場がないので湖水は比較的きれいではあるが、ドイツ人は湖の水を直接パイプに汲みとらず、湖底を60m掘って、地下水として湖水を汲み上げている(坂井洲二『ドイツ民俗紀行』)。川の水の条件が悪いドイツで水道が敷設されたのは、たとえば、リュベック市が1294年、ニュルンベルク市が1483年、ハンブルク市が1531年。日本の水道の歴史と比べればはるかに古いが、西欧全体としてはそんなに古くはない。すでに古代ギリシアにおいて発達し、ついで前4世紀末から紀元後にかけてローマの大水道が完成したことは史上に名高い。[3]灌漑用水と水車:“エジプト文明はナイルの賜なり”ということばをひくまでもなく、人類文明発祥の地が河川と密着していた要因は、灌漑用水にかかわることはいうまでもない。ヨーロッパでは前2世紀の初めに、河川の水のエネルギーを利用する水車の発明があり、その動力を利用して穀類製粉の挽臼を回した。中国では漢代末期に水車の記録がみられる。日本においては7世紀初めの推古朝に大陸から伝来したという。水車は製粉のみならず、しだいに発達して鉱山の揚水に、冶金業・送風・砕鉱や紡織業におよび、ひろく動力源となった。[4]交通・運輸の道:河川と交通路は不可分の関係にある。自然発生的に川の流域・河谷沿いに交通路が開け、古代人は川沿いに通行した。たとえば、北海道東部第1の都市、釧路は、釧路川の河口にある。地名はその昔、アイヌの人びとにとって、川が信頼できる通路であったことから“クシベツ”(通り抜けられる川の意)に由来するといわれる。中国東北部・大興安嶺山中に住むオロチョン族の地名は、特定の道しるべとなる地点以外は、河川の名称が主である。細流の小谷にいたるまで下流からすべて暗記して命名され、一度通ったところは一生記憶されているという。豊かな水量に恵まれる中国の長江(揚子江)、アメリカ合衆国のミシシッピー、ヨーロッパのライン・ドナウ・ヴォルガの諸河川、南アメリカのラプラタ川などは舟運機能の価値がとくに高い。日本の河川は上記の諸外国の大河と比較すれば、その規模はきわめて小さいが、それでも山地から伐り出す木材を筏にして下流に運ぶ通路として、また、古代の丸木舟以来、高瀬船に代表される和船時代をへて蒸汽船の時代にいたるまで、水上運輸の交通路としての役割を果たした。川船の道筋を地図に書き入れると、かなり密に日本中を覆ってしまうほどである。その大方は近世初期に成立したものである。[5]川の幸:“川の国”ともいわれる日本は、古来、東日本をはじめとする河川に遡上するサケ・マス漁など、川魚に恵まれてきたが、近年環境の変化により衰退の傾向にある。

【人類文化・民俗と河川】人類文明の発達舞台を概観すると、河川に直接はぐくまれて繁栄した古代の河川時代から開幕し、ついで内海時代、やがて大洋の時代の3時期を経過して今日につながるとする見方も可能であろう。日本列島だけの規模でみてもその例外ではない。また、日本の歴史を通じてみられる都(みやこ)の所在地とその規模と、そこを流れる河川・水系とのあいだに密接な関係が認められる。古代専制国家は、河川の氾濫を治めるための権力を確立する必要性と深く結びついていた。中国古代の著名な伝承に登場する禹王の大業は治水であった。中国は古来農耕を主とし、したがって何よりも水の徳を高く仰ぐ国柄であり、農民の神に対する期待の大半が水にかかわるものであった。禹王に関する伝承はそのことを物語っている。また、古来、灌漑農業・治水の必要が、天文学・数学・力学などの発明・発達を促し、そして今日、近代科学や土木技術につながっていることも確かである。“文化の母なる川”の思想は、全人類に普遍的なものである。ロシア人はヴォルガ川を“母なるヴォルガ”とたたえるのは、古代オリエントの詩編に川は諸物の創造者と賛美されている精神と通ずるものである。このようにして、古代人にとって、川そのものが神格化され、神秘・恩恵・畏怖の観念が川の状況に対応して発現された。河川の灌漑と深くかかわる農耕地帯では、川の神はさらに水の神信仰として普遍化されている。川の神=水神に豊穣を祈り人身供犠(じんしんくぎ)の風習は、古代エジプトのナイル川やローマのティベル川、また黄河流域では春秋戦国時代に行われた。水神の表象として龍蛇が信奉されることは、中国から東南アジアの各地にみられ龍蛇の形象を舟そのものや船首・舷側に付して川や湖で競漕する儀礼がみられ、日本でも北九州の一部や沖縄に及んでいる。また、稲作文化に達した以降の日本では、天の神太陽を父とし、水の神龍女を母として、田の神が霊山の頂に宿るという信仰が、民間に広く流布することになった。鳴動して沛然と雨を降らす神を雷神とし、稲妻・稲光(いなびかり)と形容され、天降(あまくだ)る神を稲魂穀霊とする信仰を生んだ。また、一般に川の神・水神は河童など小童の姿をもつ精霊と考えられ、春秋を境として山と川とを往復するともいう。川は水の神の通路とする考えも強く、神に仕える女性の禊(みそぎ)の場ともなる。さらに、川上から貴重なものが流れてくると説話が生まれ、邪悪なものを退治する英雄は川上から流れてきた桃から誕生するものと説かれた。瓜子姫説話の瓜の場合にも共通するもので、水辺に現れる、“小さい子”のモチーフ、英雄出現の代表的な型に属するものである。川上を貴種降誕の原郷とするのとは反対に、厭うべきものの住む異郷とする考えもあった。神話に有名な素盞嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した出雲の簸(ひ)の川の川上や、日本武尊熊襲(くまそ)征伐をしたときの川上梟師(たける)などがそうである。これらの古代神伝承に限らず、後世にもこの種の伝承は継承されてきた。柳田国男は一般的に普遍化し、“川上話”と称した。換言すれば、地形を基準に捉え、自己の居住地からみて高処に住む人びとが平地の住民を、平地の人は逆に高地の人びとを、嘲笑の対象とする性向に起因するものであると説明した。〈お前は川の橋の下で拾われて育ったんだぞ〉という類の、おどかしとも諺ともみられる伝承を親から聞いて育った人は今日でも少なくない。川の流れは必然的に海に注ぎ、ひとつながりの通路であることはいうまでもない。日本人の信仰には、先祖の霊が霊山から川を下って訪れ、あるいは海の彼方から川伝いにやってくるとする信仰もある。正月の飾りもの・七夕の笹・盆の精霊棚の飾りなどを川に流す習俗が根づいたのも、歳神や祖霊が川を通路として往来すると考えたからであろう。一方では、不淨なものを川に流し去る習俗もみられる。虫送りや疫病神流しなどの例である。川は清浄なものを導くとともに、不淨廃棄の場ともなるのは、川を通路とする聖穢の両義性と考えられよう。川にかかわりの深い年中行事を通覧すると、多くの行事が夏のころに集中して夏祭りの頂点をなすとともに、その後6カ月を隔てた師走朔日に水神祭を中心とした信仰習俗行事がみられる。旧5月の田植を終え6月に入ると、ところによっては麦の収穫の時期に当たり、また稲田には十分な水の供給が必要となる。暑い夏を迎え、稲につく虫を駆除し、悪疫流行に備え悪霊を追い払うために厳重な物忌みをともなった川祭・夏祭が盛んにいとなまれる。6月から盆までの民俗的諸行事は、川開き・川渡り・氷の朔日・カッパ祭・半夏生(はんげしょう)・青祈祷・虫送り・虫祭り・人形流し・夏越(なごし)・七日目(なぬかび)の行事・七夕などとつづき、夏の川祭りと総称してよかろう。川開きといえば、現在では8月1日か、その前後に催される納涼や観光本位の行事になっているが、明治以前には旧暦5月28日に行われるのが恒例であった。農村の素朴な習俗では、この日が川で水俗びしてよい初めての日とされ、キュウリは河童の好物なのでこれを川に奉納してから水に入るものとされていた。水田に水を確保し、禊祓いをする神聖な場としての川では、川開きによって物忌みの初日を意味する行事が行われたのである。旧暦6月朔日は、古来、氷の節会・氷室(ひむろ)の節会とも呼ばれて、公式行事とされ、一方、民間でも氷の朔日と呼ぶところが多く、鳥取・島根両県では小正月・マタノ正月というところがあるのは注目される。東北の仙台地方で、この日の朝、小豆を3粒飲んでおくと、道中安全のまじないになるとされ、これをカワイリ(川入り)という。ほかの多くの地方の川入節供は、12月朔日にするのが通例であるから、古くは『祝詞』にも〈六月の月次十二月はこれに准へ〉とあるように、1年を折半したこの日の行事は大切にされた。6月15日の水の神祭りを、今日では祇園というのが一般的になっているが、その信仰は少しずつ本社のものと違っている。和歌山県日高郡の山村で、6月最初の丑の日に、牛を川で洗い、小麦団子を栗の葉に包んで田畑の入口に供え、また、それを牛に食べさせ、この日を牛休みという。この時期には、人間がお祓いをして幸福が授ると願うだけでなく、それを家畜にも分かつ行事が多い。6月晦日を夏越の祓いといい、一つには茅(ち)の輪くぐりの行事に代表され、罪穢れを禊ぎ祓うもので、茅の輪が水神の使者としての蛇を型どったものと解釈してよいならば、水神祭として重視された証拠といえるし、また、水神と関係深い牛頭(ごず)天王祭とも習合しやすかったとも考えられる。夏土用の丑の日とか、7月7日をナノカビといって、川や海で水浴びする風習も全国的に広く行われてきた。7月7日、いわゆる七夕行事が、中国の星祭・乞巧奠(きっこうてん)の習俗が導入されたものであることは周知の通りである。しかし、この行事が古くから上流社会はもちろん、庶民のあいだにも広くゆきわたったについては、もともと、この時期に日本固有の伝統行事があって、それが素地をなしていたことによるものである。東北地方で、ネムッタ流しといい、7月7日の七日竹を流す日に、川に流れてくる薬水を俗びる。そのとき、“眠ったは流れろ、豆っ葉はとまれ”などと唱える。東北三大祭の一つとして名高い青森県のネプタ(ネブタ)祭りの原型は、こうしたところにあったと考えられる。盆行事に際し、川原に小屋掛けし、その中で煮炊きして食べる川原飯と呼ばれる習俗がかなり広い地域に分布し、精霊(祖霊)の迎え送りとか、夏病みをしない呪いだといわれる。また、川での施餓鬼行事でもある。以上のような夏祭り・盆行事から約半年後、師走朔日にも川に関係深い行事がある。東日本では、川渡り・川浸(びた)りなどといい、西南日本では、オトゴツイタチ・ヒザヌリツイタチの名称が多い。このように、1年をほぼ折半する二つの時期の川祭り・水神祭りは、盆や正月を迎えるために物忌みをして潔斎(けっさい)する意味をもつ習俗と解される。中国でも、今から約1,400年前に揚子江(長江)流域地方の年中行事を記述した『荊楚歳時記』に、〈正月の河辺の宴〉と題し、元日より月末にかけて、家族・親類・近隣の者たちが会合して大いに酒を飲みかわし、小舟で川を渡る競争をして水神を祭ったり、川辺で衣の裾をすすいで身の穢れを祓う習俗のあることが伝承されている。古代インドのアーリア人は、流れる川の水に生命の本源を達観していたという。今日でも、聖なるガンジス河には、早暁からヒンドゥー教徒がガート(沐浴場)に集まり、河に身をひたしたり、ある者は口をすすぎ、または身体を洗っている光景がみられる。日本で七福神の一つとして親しまれている弁財天は、インド神話に登場する水の神・河の神なる士着神が、仏教に吸収され、習合したものといわれている。人が一生を送る過程のなかで、重要な折り目折り目にとり行う儀礼で、川と関係が深いものがいくつもある。高知県宿毛市沖の島では、産まれて3日目に、谷川から濡れた丸い小石を拾ってくる。この石をオブノイシ(産の石)といって、お七夜まで床の間に供えて置き、以後は目に触れないようにして包み箪笥の奥などに深くしまい込み、嫁入りのときに持参させ、最後には棺のなかに入れてやるということが伝承されている。川は文化の通路である反面、その規模にもよるが、人や物資の流通を遮断し、文化の境界線を形成する場合もある。そのことは、物理的に障害をなしているだけでなく、観念的に現世と来世を隔てる区画としても作用する。川を渡る際の特別な習俗や、橋そのものに対する観念、および渡り初めの行事によく表現される場合がある。

 日本の河川は荒川(あれかわ)で、流水の増減度が著しいために、河川敷・河原が広い。荒地のまま放置され、無主の広場も多い。しかし、河原には、一時的にせよ、住みつくようになったのは、ずいぶん古くからのことであるらしい。河原を生業の場とした人たちは、ときの権力者からは何らの干渉も受けず、租税など免れる気楽さがあった。そこに一応の生活根拠を置いたことから“河原の人”とか“河原乞食”などと呼ばれ、不当に蔑視されたのは、おそらく古代末期以降のことである。彼らの雑役として、最も古くから知られているのは、キヨメ(清掃人夫)であった。河原には市(いち)が立つところもあり、あるいは処刑や葬送の場、合戦場ともなった。とくに注目に値することは、この広大な空閑地に、14世紀半ばごろには粗末ながら筵囲(むしろがこい)小屋がつくられ、田楽の勧進興行が行われるなど、民衆芸能の発祥地となったことである。近世以降の諸芸能の多くは、直接には河原を舞台に、河原の仲間によって育成されてきたものであった。今日では、ゴルフ場・野球場・駐車場などに利用されるところも多くなった。

〔参考文献〕北見俊夫『川の文化』1981、日本書籍

豊田武・藤岡謙二郎・大藤時彦編『流域をたどる歴史』1〜7 1979、ぎょうせい

小出博『日本の河川』1970、東京大学出版会

赤松宗旦『利根川図志』1858(岩波文庫に所収)

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