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●カロリング朝 カロリングちょう

AD751 

メロヴィング朝宮宰職から台頭し、751年にこれに代わってフランク王位に就いたピピン3世以後、カール大帝・ルイ敬虔王のもとで西欧を支配した王朝。9世紀なかばに独仏伊に分裂し、しばらくのあいだそれぞれの国の王位を保持した。

【起源】フランク王国では国王の息子たちが等しくカリスマ(超越的権威)をもち、王権は王家全体に相伝される宗教的色彩すら帯びていたので、アウストラシアネウストリア・ブルグント・アクィタニアの四分国に王が並立するのが普通であった。カロリング家はアウストラシア分国の宮宰職にあった。宮宰職は元々王家の財政役人であったが、やがて国王従士団や地方豪族の指揮者、御料地の管理者、司法・行政の統括者として、7世紀初めには各分国の最高官職になり、アウストラシアでは7世紀以来カロリング家が宮宰職を世襲していた。

【王朝の交代】687年テルトゥリーの戦いでネウストリア宮宰を破ったピピン2世は、全フランク王国の宮宰職を兼ね、カロリング王家成立の基礎を置いた。子のカール=マルテル(在職714〜741)は732年トゥール=ポワティエの戦いにイスラーム勢力を破り、王権が事実上彼の手にあることを示した。当時偶像崇拝論争でビザンツと争い、ランゴバルト勢力に囲まれて苦境にあったローマ教会から提携の動きがあったが、結びつきは次第に顕在化する。彼の後を継いだカールマンとピピン3世(在職741〜751、在位751〜768)は、辺境地方を再征服して領域を安定化させ、747年にカールマンが修道院に隠遁した後はピピンが単独宮宰となり、751年ソワッソン諸侯会議で貴族たちに推されてクーデタを断行し、名目的存在と化していたメロヴィング家の王を修道院に追い、教皇ザカリアスの承認のもと、フランク王位に就いた。真に王にふさわしい適格者が王たるべしという原則が選挙原理と結びついた王朝の交代である。

【西欧帝国】754年ピピンはイタリアに遠征し、ランゴバルト勢力を討って“ローマ人の保護者”称号を得、756年には中伊を教皇領として献じ、教皇との提携を深めた。カロリング朝の登場はフランクとイタリアの結合を軸にする西欧の新時代の幕開けになった。ピピンの死後、子のカール(在位768〜814)とカールマンが共治したが、弟の死後771年カールは全国統治権を掌握した。彼はザクセン征服(772〜802)・ランゴバルト征服(773〜774)・スペイン遠征・バイエルン征服・アヴァール人征討などの領土拡大策の結果、空前の大帝国を支配した。800年のクリスマスの日、ローマ訪問中の彼は、聖ペテロ寺院で教皇レオ3世から皇帝冠を受け、市民の歓呼のなかでローマ皇帝となった。単に西ローマ帝国が復活したのではなく、ローマ・ゲルマン・キリスト教の三要素を基盤としたキリスト教的西欧帝国の誕生であった。カールはアーヘンに宮廷を構え、全国に伯や巡察使を派遣して集権的行政をはかり、カロリング=ルネサンスと呼ばれる文化復興に尽力した。

【カロリング帝国の分裂】カロリング朝でも、王家の分割相続や持ち分添加(兄弟の誰かが死亡した場合、その分国は生き残った兄弟の持ち分に加えられる)の原則は不変で、ルイ敬虔王がカールの帝国を相続したのも、ただ一人生存した息子であったからで、ルイの死後、帝国はロタール(中央部)、ルートヴィヒ(東)、シャルル(西)に分割され(843、ヴェルダン条約)、争いのなかで分国内の豪族の自立性や国王選挙権が強まり、代襲相続(兄弟のうち誰かが死亡しても、その子や孫が相続できる)の原則が生じた結果、三国は以後合体されることがなくなり、王位もカロリング家から離れる結果となった。イタリアでは9世紀後半、ドイツでは10世紀初頭に断絶し、フランスでは選挙でカペー家と争い、10世紀後半に敗れて姿を消すにいたった。

〔参考文献〕J.ブーサール、井上泰男訳『シャルルマーニュの時代』1973、平凡社

H.ヘルビック、石川武・成瀬治訳『ヨーロッパの形成』1970、岩波書店

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