●枯山水 かれさんすい
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かれせんずい・からせんずい・こせんずいなどともいわれ,それらに「枯」でなく「唐」あるいは「涸」の文字をあてることもあり,また「石庭」とも呼ばれている。日本庭園の様式の一つ。池を掘り遣水を流し,築山をつくり草木を植えて自然の風趣を表現するのが,庭作りの古来の原則である。それなのに実際に池を掘り遣水を流すことをせず,すなわち水を用いず,ただ起伏のある地形を利用して滝や河水の趣を表し,あるいは石組みを主とし砂礫を使って水を表し,全体として山水の風趣を象徴的に表現した庭園のこと。京都の龍安寺や大徳寺の塔頭大仙院の枯山水が有名なため,枯山水という呼称は室町時代以後のもののように一般に考えられているが,実はすでに鎌倉時代からあったのである。『作庭記』は,鎌倉時代前期に出た公卿文化人,「後京極摂政良経」すなわち九条良経(1169〜1206)の著とされるもので,現存最古の作庭の秘伝書であるが,それに「枯山水」について次のような解説がみえている。すなわち〈池もなく遣水もなき所に石をたつること,これを枯山水と名づく。その枯山水の様は,片山のきし,或いは野筋などを作りいでて,それに取付けて石をたつるなり〉とあるのが,それである。なお「野筋」とは,起伏のある低い丘とその道のことである。京都西芳寺の上段の庭すなわち洪隠山の枯山水や,三重県一志郡美杉村にのこる北畠国司館跡の枯山水などは,この「片山のきしに取付けて石を立てた」もので,初期の枯山水の様式を伝えているものである。この初期の枯山水は,大きな庭園の一部を構成するにすぎなかったが,枯山水が一つの庭園として独立するようになったのは,室町時代後期に入ってからのことと推定され,その代表的な遺構としては,龍安寺・大仙院・妙心寺の塔頭の退蔵院と霊雲院の庭園などが挙げられる。なお,時代はやや下るが,南禅寺と大徳寺の方丈の南庭,大徳寺方丈とその塔頭真珠庵方丈の東庭も,ともに枯山水の代表的なものであり,また石とともに刈込みを活用した京都の正伝寺・円通寺,また奈良県小泉の慈光寺の庭園も枯山水の様式に入るものである。枯山水が庭園の一様式として成立し,ことに室町時代中期以降,禅寺において流行した原因はどこにあるのであろうか。庭園が元来「山水」と呼称されたことが示すように,水はその不可欠な構成要素である。しかし土木工事の技術がまだ発達しない時代に,水の無いところないし得難いところに水を引き「山水」を構築することは,強大な権勢と豊富な財力をもつ人,あるいはそれを保護者とする人の場合は別として,ふつうの人には不可能なことであった。とりわけ,当時林下と呼ばれ在野派の立場にあり,財力の乏しかった大徳寺や妙心寺派の禅僧らには,それは到底およびもつかぬことであった。しかし彼らもまた庭園の魅力にとりつかれ,作庭の渇望を抱いていた。そのとき,彼らの脳裏に天啓のようにひらめいたのが,鎌倉時代からすでに大庭園の一部として取り入れられていた局部的な枯山水様式を全面的に採用し,それで独立した庭園を構築することであったのではなかろうか。なお,この推定を裏づける資料として,『元亨釈書』の著者として名高い東福寺派の僧虎関師錬の「盆石賦」(『済北集』所収)であり,彼はそこで〈私はかつて庭園を営んだこともあったが,今は老いてその手入れをする余裕も体力もなく,また人を傭う資力もない。そこで拳大の石を拾ってきて,これを尺余の盆に配置し清冷な水を注ぎ,そこに大自然の風趣を主観的に想望してこれを愛玩している〉と説いている。大徳寺派の僧古嶽宗亘が,大仙院方丈の前庭および東庭の狭小な空間にあの枯山水を営んだのも,何人かが龍安寺方丈の前庭に,十数個の石と白砂だけであの石庭を営んだのも,同じような考え方からであり,また同じく清貧簡素を愛し不易の美を追求する人生観と,「閻浮八万四千の境 縮置す野僧が盆水涯」(『蔭涼軒日録』長享2年3月27日の条)という禅的な世界観とにもとづいているのであろう。