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●カルボナリ党 カルボナリとう

ヨーロッパ イタリア共和国 AD1806 サルデーニャ王国

 1806年ごろに南イタリアで結成された,フリーメーソンの流れをくむ秘密結社であるといわれるが,その起源ははっきりしない。学界では,フランス革命の初めにフランシュ=コンテに存在した炭焼きの組合を模した秘密結社「炭焼党」に始まり,1806年のジョゼフ王のナポリ入りに際して,これに随行した旧ジャコバン派の人々によってナポリに伝えられ,亡命からたち戻った同王国の共和主義者たちを母体として結成されたという説が有力である。カルボナリ党は位階制の構造をもち,徒弟・親方・大親方の三段階に分かれている。それぞれの位階に教義問答書があるが,第1位階(徒弟)では道徳的観点での人間愛,第2位階(親方)では政治的観点から専制への批判と自由の要求,第3位階では自由と平等の共和国を再建し,農地均分法を軸とする社会的平等の達成が目標として掲げられていた。結社員たちは自らをカルボナーリ(炭焼き人)という賤業にみたて,自分たちを取りまく社会をボスコ(森林),政府とその与党をルーペ(狼),結社員の秘密集会所をバラッカ(山小屋),結社の細胞をヴェンディタ(炭売り場)と称した。カルボナリ党の初期の性格は宗教的色彩を帯びており,キリスト教王国や人間平等の思想を有していた。ジョゼフ王ミュラ王の治下のナポリで,ナポレオン体制に反発する共和主義者たちの結社としてはっきりとした姿をとるようになり,ミュラ王もカルボナリ党に好意的で,その政府も密かに支持を与えていたといわれる。しかし,1812年にシチリアで自由憲法が発布されると,ナポリでも憲法要求の運動がおこり,カルボナリ党はミュラ王の軍事専制に反発を強めた。ただ,カルボナリ党が政治的重要性をもつのは1815年の旧制復古以後であり,ブルボン復古体制と闘うために旧ジャコビーノ派の知識人・ブルジョアジー・下級僧侶・下級兵士などがカルボナリ党に依拠した。王政復古後にカルボナリ党はその勢力を拡大し,北部・中部イタリアにも組織をひろげ,数年にして党員30万人を数えたといわれる。その勢力の中心は,専制王政に対して不満を表明する中・小ブルジョワジーであったが,下級僧侶や職人,また復古王政のもとで官位を下げられた下級士官・下士官・下級官公吏など,また土地の再分配を要求する農民の一部も参加した。スペインの立憲革命の影響を受けて,1820年7月にナポリから27kmのところにあるノーラで,カルボナリ党員がそこに駐屯する将兵を巻き込み蜂起した。このノーラの蜂起は大きな反響を呼び,各地で反乱がおこり,7月8日に国王が憲法を発布することを布告し,一時は立憲革命は成功した。しかし,中・小地主ブルジョワジーから成るカルボナリ党指導層と,革命政府の要職を占めたミュラ派の名士達のあいだに革命の内容をめぐって対立が生じ,その革命派の足並みの乱れに乗じて,オーストリア軍がたいした抵抗も受けずにナポリに入城し,1821年3月23日に革命政府は崩壊した。この革命の敗北により南イタリアにおけるカルボナリ党の勢力は衰退することになる。しかし,このナポリの革命に加わった二人のフランス人がこの地のカルボナリ党の経験をフランスにもち帰り,フランスでそれを結成したことで急速に国際化することになる。ナポリの革命が終末を迎えようとしていたときに,北部イタリアでブォナローティ派の秘密結社であるフェデラーティとカルボナリ党の細胞などが連合して反乱をおこすが失敗に終わる。1820年代にフランスをはじめとしてヨーロッパ諸国でウィーン体制に批判的な自由主義者がカルボナリ党に結集し,国際的なひろがりをもつことになった。イタリアでは,1831年に中部イタリアのモーデナ・パルマ・ボローニャの各地で,カルボナリ党の亡命者を巻き込んだ立憲自由主義を要求する革命がおこったが,オーストリア軍に弾圧され失敗に終わった。この中部イタリア革命を最後に,自由主義でブルジョワジーのカルボナリ党の運動は衰退し,それに代わって,マッツィーニの指導する青年イタリアがリソルジメントに登場することになる。