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●カール大帝 カールたいてい

AD742 

 742〜814 (在位768〜814)フランク王国カロリング朝第2代目の王,ピピン短躯王の長子。768年父王の死後,弟のカールマンとフランク王国を共同統治するが,3年後弟が没すると単独支配者となる。以後カールは,王国の領域の防衛・拡張,行政改革・文化振興などに尽力した。外征としては,前代から継続していた苛烈なザクセン戦争のかたわら,774年には教皇ハドリアヌスの要請でランゴバルド王国を攻撃・滅亡させ,フランク王にランゴバルド王の称号を加えた。アクィタニア・イスパニア・ブルターニュ・バイエルンにも遠征を行い反乱を平定し,また9世紀初頭,アヴァール人をも破って王国の版図を拡大した。その結果,イングランド・南イタリア・スペインの一部をのぞく西ヨーロッパのほぼ全域を掌中にした。この広大な王国の統治のため,より規則的な中央権力の運用と地方行政への直接的介入がめざされ,その手段として文書−−とりわけカピトゥラリア(勅令)−−使用の拡充と,国王の代理人コメスの配備,および彼らの按察使による監査の定期化がはかられた。780年代以降,カールは聖職者・俗人の有能な役人を養成するために,教育改革・学芸の復興にも意欲を燃やした。宮廷に当時の西ヨーロッパの傑出した知識人−−アングロ=サクソン人のアルクィン,ランゴバルド人のパウルス=ディアコヌス西ゴート人テオドゥルフスなど−−を招聘したのも,その政策の一環であった。彼らはローマの古典の影響を強く受けた歴史や詩文を著し,粗雑で乱れていたラテン語の洗練にも貢献した。この古典復興運動は,通常「カロリング=ルネサンス」と呼ばれる。ヨーロッパに実質的にローマ=カトリック世界が誕生したのもカールの時代であった。フランク教会はローマ式典礼を採用することによってローマ化を進め,また国家統治の本質的部分として教会の組織が組み込まれるようになった。各都市では,司教はコメスと協力して施政にあたり,国王は教会立法や司教選挙への介入,聖職者改革や教会財産の回復につとめて,教会の建て直しに力を添えた。だがこれら俗権と教権のあいだの頻繁な協力という事実にもまして,宗教的=霊的世界と政治的=世俗的世界の領域がほぼ重なり,フランク国王とローマ教皇とが緊密で恒常的な絆で結ばれたことが,カール治下におけるカトリック世界の成立を印象づけている。その仕上げをしたのが,800年クリスマスの日,ローマでの教皇レオ3世による「カールの載冠」である。この事件はカールの治世中最も重大なできごとだとされるが,その意義については史家のあいだに見解の一致をみない。「カールの戴冠」の背後には,多くの者の思惑・利害がからんでいたことは確かであり,かつては,とくにトランスラティオ=インペリイの理念を抱いた教皇がビザンティン帝国(ギリシア正教会)に対抗し,日の出の勢いのカールを利用して西ローマ帝国再興を企てたものであり,カールにとっては意想外のできごとだった,とされることが多かった。しかし近年では,[1]当時激しい紛糾状態にあった教皇庁においてそのような遠大な政治的構想を描くゆとりはなかったこと,[2]カール自身,すでにアーヘンに広壮な建築群・貴重な聖遺物を備えた「第二のローマ」を建設中であったこと,[3]カールの側近の学者,たとえばアルクィンなどは,800年以前にカールのインペリウム=クリスティアヌムについて言及していることなどから,“戴冠”は必ずしも教皇のイニシアチブになるできごとではなく,カールも承認の上で,事前に入念に準備されたものであったというのが通説となりつつある。そのあいだの事情がどうあれ,“載冠”はローマ教皇をビザンティン皇帝の行政的代理人の地位から解放し,東西両教会分裂の種を撒くとともに,ヨーロッパ内部では「聖俗関係」という点で以後長く尾をひく課題を残した。カールの晩年には政治・社会・宗教いずれの局面でも頽廃がみられた。アウストラシアの貴族層が再び中央政治の実権を握り,地方の豪族は,皇帝と貧者双方の犠牲の上に権力を肥大させていった。