●加羅 から
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伽羅・迦羅あるいは伽耶・加耶(カヤ),また加洛・駕洛(カラク)とも書く。韓国慶尚道を流れる洛東江下流域には3世紀の半ばには弁韓一二国があった。これらの小国はゆるやかな連盟体を形成し独立の勢力をなしていたようである。そのなかで金海の狗邪国,高霊の弥鳥邪馬国があったが,その後,前者は発展して金官国(本加耶)に,後者は大加耶に発展して,それぞれ連盟の中心となった。しかし,これらの国々や地域をなぜ加羅と呼んだのであろうか。3世紀半ばごろ朝鮮半島南部の部族の三集団,馬韓・弁韓・辰韓を総称して韓と「魏志」は呼んでいる。この地域の首長が自ら某々カン(ハン)と称したのを中国人が韓の字をあてたものとみられる。また干・可汗・旱岐・寒も同様で,さらに狗邪国を狗邪韓国とした韓国はカン(ハン)の国で,また加羅(加邪)ともあて字したものとみられる。わが古文献では韓はカラと訓じて加羅よりも広い意味に用いた。韓郷之嶋・韓神・韓鋤之剣などは漠然と朝鮮を意味しており,韓人という場合は高句麗人・百済人・任那人・新羅人を総括した。またわが国では,この地域を総称して任那,狭義には金官国のことを任那といった。わが国では往古,百済より大陸文化を受け入れるまでは,この加羅地方から先進文化や物資を受け入れていた。それでカラとは外国をさす語となった。しかし,この加羅緒国は6世紀になると,国力をたくわえた百済と新羅によって急激に蚕食され,ついに538年にはその中心的な金官国,562年には高霊の大加羅が減ぼされて加羅は消滅した。滅びた加羅の文化は新羅よりも高かった。加羅の人物・文化は新羅に吸収されて,新羅の発展に寄与した。〔参考文献〕三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証上』
三品彰英遺撰『三国遺事考証上・中』